かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

巨大古墳の出現 仁徳朝の全盛

2012年03月15日 | Books

question2今朝のA新聞のトップ記事を見てびっくりした。別に、G党でも何でもないのだが、これが日本の一流新聞?のトップ記事と思うと情けない。夕刊〇〇や、社会面だったら、何にも言わないけど。
政治にもあきれているのだが、マスコミもこれでは、何を頼りにしていいのか。猛省をうながしたい。本当に何を考えているのだろう?
商売敵の広告塔への攻撃を、公器を使ってやっていると、思いたくはないが。



本書が、新・古代史検証5巻シリーズの最後に出た。妙に遅いと思っていたら、著者の一瀬さんが、病み上がりで、時間がかかったと後書きにあった。今は、大学の教授だが、発掘人生だったそうで、まさに精魂込めた1冊と言えよう。

プロ中のプロが、精魂を込めるのだから、アマチュアには、やはりちょっと難しい。それでも、百舌鳥古墳群と、山の辺の道近辺の古墳を、ばたばた見たところなので、興味深くは読めた。
それにしても、ここまで分析するものか。これだけの数を調べると、そのデータが積み重なって当時の日本全体のうねりのようなものが、感じられるのは不思議なことだ。その中でも山の辺の道近辺にある、箸墓古墳と、百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵(本書は、この呼び方を肯定している)は、とてつもないものであることがわかる。規模もさることながら、その作られたタイミングだ。まさに、エポックメイキングな古墳なのだ。

古墳が多く作られた4~5世紀は、中国の歴史においては、混乱期にあたる。そのことと、日本で古墳が多く作られたことと無縁ではない(かもしれない)。その一番最初が箸墓で、ピークが仁徳天皇陵になる。

古墳の研究は、天皇陵の発掘ができないのはともかく、進んではいるように思っていたが、本書によると、画期的な発見は、減ってきているという。発掘ノウハウの継承が大きな課題になっているのだ。

大規模古墳群の分布は、時代別に分析すると大和東南部→奈良市佐紀→馬見→古市→百舌鳥と西に移動している。この理由にもいろいろ説があるが、古墳が巨大化するに沿って、土地のある西に移ったとも考えられるそうだ。河内王朝説には、反対の立場。そして、巨大化がピークを迎えると、大王以外の墳墓についてのサイズや形に制限が加えられるようになり、最後にはぷっつりと作られなくなる。

古墳の分析には、副葬品や、埴輪が大きな材料になる。鉄の鎧が後期には、多く発見されるが、それ以上に埴輪は、そのスタイルや、紋様から、かなり細かく時代を分析する材料を提供してくれる。仁徳天皇陵には、3万個の埴輪が並べられていたというから、その権力の大きさは、とてつもないものだ。埴輪の大きさも、我々がふつうにイメージするものより巨大なものである。

以前、韓国でも前方後円墳が発見されているが、在地の首長か倭系の百済官僚ではないかという。つまり、前方後円墳が日本発であることには、かわりはない。日本の古墳に勝る古墳は、韓国にはない。

早くも、古墳研究者の間では、マストの一冊になっているのだろう。アマチュアには、ちょっとtoo much? でも面白いよ。

コメント
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