日本人女優としては実に35年ぶりという、ゴールデングローブ賞助演女優賞ノミネートの快挙を成し遂げた菊地凛子。
と言う事で、話題を集めた「バベル」を5月9日に観た。モロッコで放たれた銃弾のそのライフルの持ち主は日本人だった、というのは知っていたが、その他の予備知識無しで観に行った。予備知識無しでも、なぜかとんでもない先入観を持っていた。
かって神の怒りによって世界はいくつもの言語に分かれ、その意思は通じないものになってしまったと言う、「バベル」の説話。
だけど、意思の通じない人たちが何かの事件を通して、その意思を通じさせていく話なのかと、少しだけ思っていた。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の他の作品を知らなかった事や、ブラピが主演だからとか、正月にやったドラマ「相棒」が「バベルの塔」だったからなのか。とにかくそんなどこから来たのかというような先入観を持って、劇場に足を運んでしまったわけだが、それでは、この映画はかなり辛かったかと言うと、そうでもなかった。
不思議な余韻が、そこにはあった。
「神よ、これが天罰か。
言葉が通じない。心も伝わらない。想いはどこにも届かない。かつて神の怒りに触れ、言語を分かたれた人間たち。我々バベルの末裔は、永遠に分かり合う事ができないのか?モロッコの片隅で偶然放たれた一発の銃弾がアメリカ、メキシコ、日本の孤独な魂をつなぎ合わせてゆく。耳をすませば聴こえてくるはずだ。初めて世界に響く、魂の声が。
2007年、世界はまだ変えられる。」
このコピーを書いた人は素晴らしい。だけど、この映画はそんな映画なのだろうか。こんな素晴らしいけれど虚飾の言葉を廃して、この映画と向き合った時、この映画の本当の良さが見えてくる。
観終わった直後、私が難解だと呟いたら、一緒に観に行った友人が、私が全て理解して観ているのだと思ったと言った。それを褒め言葉と勘違いした私は、何かお礼が言いたくて余計なピースを彼女に渡してしまった。なかなか組み立て辛いジグソーパズルに、その一枚を組み入れると、不思議なくらいに、自分の中で完成していってしまう。
美しく圧巻でありながら不自然さを感じさせるラストシーンも、チエコの出口のない孤独からと言う理由付けが されている異常な行動も、母の突然の自殺も、そのピースをはめ込んでみると形を成していく。
すると友は言った。
「そうよ、絶対!」
―絶対―と言われて私はたじろいだ。
見ていて普通に感じたことだが、セリフによるヒントは皆無だからだ。私は珍しく情報を求めてプログラムを買い求めた。ブログや解説なども読んでみた。上映中を配慮してか欲しい言葉はなかなか見つけることが出来なかったが、諦めかけて読んだ最後のブログに私の欲しい言葉があった・・・
この物語は全ての心がやがて一つになって絡まりあって行く話ではなく、一つの出来事から四方に、糸が放たれていく。だから、分かれてしまった言語など何もテーマになっていない。なぜ、「バベル」なのか。テーマは、留まることのない罪であり罰なのか。
<ネタバレなのかも?>
だから、私は友人に
「この親子はね・・・」と呟いたのだった。
見渡す限り視界を遮るものもないモロッコの山岳に住みながら、接するのはほとんどは、羊と家族のみと言う閉塞的な世界の少年達。この少年達に世界は見えない。
予期せぬ悲劇に陥ってしまうメキシコ人の家政婦アメリアの悲劇には、一番同情してしまう。
又、車と言う文明の箱から放り出されると遭難の危機にあうなんて・・・
まるで、大海に漂う船に乗っているようなもの。
アメリカ人の旅行客。手を伸ばせばそこにはお互いの手がある。だけど心は通じない。我が身を血に染めてようやく繋がりあう心。
人と光は溢れかえっているが、静寂の世界がそこにある。溢れかえっているのにからっぽだ。手に抱えきれないほどの物を持っているのに、心は埋まらない。閉じ込められた思いは出口を探す。問題になってしまったシーンは痛いアクシデントだ。音・光・静寂・その繰り返しにチエコの孤独の心が伝染してくる。
これらはこの監督の罠なのだろうか。
チエコの手紙は明かされない。涙する子供の姿は見せてもその後は登場させない。少年の兄はどうなったのか、誰にも分からない。失いかけた想像力の欠片を使えと言うことなのだろうか。
ヘリコプターに乗り込む時の、ブラピと村人との別れのシーンには感激した。
私は一人呟いてみる・・・
―何も罰する事なかれ、奪うことなかれ。
砂粒よりさらにちっぽけな存在である我らは、それでも魂の限りもがいている、叫んでいる。そして愛している―