森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「リバティーン」

2007-05-23 22:51:39 | 映画
リバティーン - goo 映画
DVD にて。


 17世紀に実在したロチェスター伯爵ことジョン・ウィルモットの半生をジョニー・デップが演じる。一言で言い切ってしまうならば、溢れる能力を持ちながら、自堕落に酒と女におぼれて死んでいった男の物語だ。

 この映画を見ていて、涙の一滴もこぼれることはないが、嫌いな映画かと言うとそうでもない。確かに、昔こんな男がいた、だからどうしたと言われると、そうねえと思ってしまうのも確かで、そんなことはない、こんなに魅力的なんだと庇う気持ちにもなれないのも事実である。

 じゃあ、どこが好きだったのか考えてみる事にした。

 大好きなジョニー・デップが演じているから?
確かに一番の理由はそれだ。
たぶん私は分けて物事に感想を持たないタイプなんだ。ジョニーが良いなら、まあまあ良い映画ということなのかもしれない。
 

 王政復古の時代のイギリス。だからといってその頃の王は絶対王政の王のように絶大な権力があったのだろうか。何かが同じで何かが違う。王の力も議会に左右される。
―王政復古と言う響き、飲んだくれその手が触れれば女を抱き、愛と芸術を弄ぶ。
そこからは、ツーンとした詩の匂いが漂ってくる。又それは忍び寄ってくる死臭なのかもしれない。

 惜しいかな、この映画の中でジョン・ウィルモットの才を感じさせる詩などは披露されなかった。本当はされていたのに、字幕では理解出来なかったのだろうか?
ネット内でも探してみたけれど、探し方が悪かったのか、見つからなかった。せいぜい分かった事は「ロチェスター郷の猿」と言う本がこの映画のせいで値段が跳ね上がったことぐらいか。一つでも、唸らせてくれるような詩の紹介がされていたら、又違う見方が出来ると思うのだが・・・

 唯一披露された彼が主演の舞台劇。   <この先ネタバレあり>

確かにフランス大使をもてなす作品には相応しくはないし、実際下品な作品として上演禁止になったらしい。だけど、私たちが映画の中で見せ付けられた劇は当時の作品のシナリオなのか。もしそうならば、好みは別にして、何か時代を卓越してないだろうか。いや、そんなものではないと言うのなら、誰もがガッカリして当たり前だ。様々な刺激に慣れてしまった現代を生きる私たちにも、一目でうんざりする作品を見せ付けなければストーリーは進まない。

この映画の中で、唯一見せた彼の傑作は、国王のために議会で名演説をしたことだろうか。いや、そうではない。この映画の冒頭、誰もがこの映画に必要以上の期待を募らせ、そして撃沈させた罪な独白がある。


>初めに断っておく。
諸君は私を好きになるまい。
男は嫉妬し、女は拒絶し、物語が進むにつれてどんどん私を嫌いになる。
淑女たちに警告。私はところ構わず女を抱ける。
紳士諸君も嘆くことなかれ。私はそっちもいけるから気をつけろ。
私はジョン・ウィルモット、第二代ロチェスター伯爵。
どうか私を好きにならないでくれ・・・・。

これこそが、彼の人生をかけて作り上げた詩そのものだったのかもしれない。



上の文で終わらせれば、まとまりも付くかも知れないが、それでは少し言い足りないので付け足しておくと、私はジョニー・デップのファンではあるが、別に彼が美しいから好きなわけではない。この映画では冒頭の彼の美しさを言う人も多いけれど、とても美しいとは思わない。メイクを駆使し、変幻自在な表情を作り上げるジョニーにしては、なんというかナチュラルメイクで、29歳だと言われても、舞台ではないので、なんとなく受け入れがたいものを感じてしまう。

この話の核をなしているはずの、女優エリザベス・バリーを育てるエピソードはいたく退屈だ。又、彼女は美しくない。私はこの映画のメイクが好きではないみたいだ。彼女が生きてくるのは、ジョンが最後に会いに来た時冷たく別れを言う所だと思う。そこにはしたたかで強い女が立っていた。
「君を妻にしたかった。」「せめて子供でもいたら。」と情けない言葉を続ける伯爵とは対照的に
「分からないの?私は誰の妻にもなりたくないのよ。」「子供は産んだわ。」そして、
「私に会いたかったらお金を払って、劇場に来て。」と、彼を切り捨てる。



同じ名前の資産相続人である妻は、献身的にその最期を看取る。その最後の時、妻を略奪した時の話を聞きたがった伯爵にとって、その時が彼にとって一番光り輝いていた時なのかも知れない。


愛し尽くしながらも別れていく娼婦も出てくる。彼女は彼を本当に理解していたように思う。
―人生の享楽と言うものを精一杯楽しんでいるように演じている。―
みたいな事を言っていて、頷ける。

だが、ロチェスター郷が梅毒で死んだのなら、彼女達の人生にはこの映画では描かれない壮絶な陰の部分があって、私はその陰からのイメージから抜けきれず心が重くなる。


この映画の中で、彼がインモラルな公園を彷徨うシーンがあるが、さながら自らの心の中を彷徨っているかのようで、印象深い。





―もうすぐ六月で桜桃忌の季節が又来る。
世の中には、自分の魂を喰らいながら、何かを生み出していくそんな人間がいる。―







コメント (4)
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