「ハムレット観劇日記【その2】」の続きです。
この記事は敬称略で書かせていただいています。
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「ハムレット」の物語にそんなに思い入れがなくても、ずっと昔からオフェーリアは私にとって大切な人なのです。それはたぶん子供の時にドラクロワの一枚の絵ハガキを貰った時から。
そのお話はこちらです。→「ネズミのようにシェークスピアをかじってみる」
オフェーリアは劇中のヒロインでありながら、多くの画家たちの素材として好まれたようです。
「ラファエル前派展に行ってきました。」で取り上げた、ジョン・エヴァレット・ミレイのオフェーリアは、まことに今回の満島オフェーリアと重なるものを感じました。無垢で従順であるがゆえに狂気の人になっていったオフェーリア。
「ハムレット」と言う物語は、有名であるがゆえにそのセリフを知っている者には、もしかしたら自分なりの演出による舞台がすでに脳内に存在するなんて事があるかもしれないと、ふと思いました。そこにずれが生じると、どうしても違和感が生まれてしまっても仕方がないのかもしれません。
シェークスピアを演出したり演じたりするのって、すごく難しい事なんだなあって、だから私、思ってしまいました。
たとえば、分かりやすい例で言ってしまうと「奇跡の人」と言うお芝居だったりすると、「ウォーター」の奇跡のシーンは、みなそれぞれに工夫を凝らして、なるほど~こう来たかみたいな感覚にはなるけれどそのアイデアを楽しんで、違和感のようなものを感じる事はあまりないんじゃないかな。
いや、それは実は「ハムレット」にだって言える事なんだけれど、やっぱり古典であるがゆえにハードルが高いと言うような気がしてしまうのです。
実は私、少々オフェーリアのシーンには若干のイメージのずれを感じていたのです。
でも、でもですよ。
先日2月25日にBSプレミアムで、「女優 満島ひかり まだ見ぬ世界へ~シェークスピアに挑む~」を見たんです。「ハムレット」の感想の最後はこの番組を見てから書こうと思ったのはまさに正解でした。
私の中にあったズレが一気に修正されていき、舞台への感動が再び蘇ってきました。
本当は舞台は一期一会のように、一回の鑑賞で自分の気持ちとピッターとくると嬉しいのは確かだけれど、素晴らしい舞台って言うのは、素晴らしい演出、役者さんの素晴らしい演技力に加え、観客の見る力って言うのもその舞台を作り上げていると思うんです。だからこういうドキュメンタリーやインタビュー番組を見て自分の中で舞台を完成させていくと言うのもありなんだと思うのです。
満島ひかりは「愛のむきだし」から大好きな女優さんです。
でもこの番組の初めから、「満島ひかり、すげっ!!」って思ってしまいました。
「凄い!!」じゃなくて「すげっ!!」
もう、お口あんぐり~です。
だって
「皆さんやたら声が大きくて何を言ってるか分からない。それって問題だと私は思います。」
お隣に座ってた鳳蘭がやっぱり「すげっ!!」と言う顔をして面白そうに彼女を見ていたのが印象的でした。
そう、彼女、とっても面白いんです。
これからも凄く楽しみな女優さんですね。
「To be or not to be, that is the question.」を彼女は、私だったら「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ。」とは訳さないと言います。
凄く共鳴する。
その感覚は同じではないかもしれませんが、そしてこの訳だから日本では愛されてきたようにも思うけれど、今の感覚だと私的には普通に「なすべきかなさざるべきかそれが問題だ。」の方が自分にはスッキリするのです。そして自分の生活の中にこの言葉が浸透してくるのでした。
自分を持っている女優さん。
だからこそダメ出しの続く弟である満島真之介との二人舞台特訓のシーンは良かったですね。
そして最初は自分にダメ出しが来ない事を不安に思って〈不満に思ってか〉いた彼女に、オフェーリアの見せ場のシーンでダメ出しの嵐。
でもそこ、素晴らしかった。どんどん完璧なオフェーリアに近づいていくような気がしました。
「オオカミ少女のようにうろうろするんじゃないよー!!」
野性味あふれる満島の魅力を封印して、立ち尽くし語るオフェーリア。
静かに目を開けたまま死の恐怖も知らないで沈んでいくオフェーリアの姿は舞台では語られるだけ。
でもそこを画家たちはこぞって描こうと言うのです。
そこを音楽を奏でようとする者はテーマに選ぶのです。
劇中では真実に微塵にさえも触れる事もなく、愛に迷い愛を乞う女性として描かれ、愛する家族をその愛の迷宮に誘い込んだ相手ハムレットに殺されて狂っていくオフェーリアの物語は、「ハムレット」の物語の中では、もしかしたらざっくりと排除してもギリギリに成り立つかもしれない派生的なものに私には感じられるのです。お芝居をさらにさらに面白くするエッセンスのようなものと言うか。
だけれどエロスの神が宿るハムレットの母、ガートルートよりも、オフェーリアと言う少女のような女性に芸術の神は恋をしたのかもしれません。
なんたって
「オフェーリアよ、尼寺に行け。」ですからね。
私、この場面が作り込まれていくシーンも番組内でもっと見たかったです。
意外と唐突感がしたからなんですが、思えばハムレットは聡明で思慮深い人でありながら狂人を演じていたわけですから、あの衝撃シーンで良かったのですよね。
この「尼寺に行け」は今でも論議が分かれる所なんですって。
いにしえから演じられているお芝居なのに、いつの間にか分からない部分が出て来て研究されてるって言うのも面白いと思います。
ハムレットは愛するオフェーリアを、これから起きる政治的なドロドロに巻き込みたくなかったと言う説もあれば、尼寺は別に娼婦館の意味合いがあって、そこに行けと言ったのだと言う説。今ではこちらは少数派だとか。
じゃあ、私は少数派なんだなと思いました。
守りたいんだったらあんな言い方をして、はいそうですかって行くわけもない事ですし、・・・・あっ、守ると言うのは自分から遠ざけると言うことなのかな。
でもお芝居を見る時はちゃっかし膝枕・・・。
娼婦館とは思いませんが、この時代の尼寺って言うのは相当乱れていて、それが周知の事実になっていたと聞いたことがあるのです。
復讐で頭がいっぱいのハムレットに、親に従順にしたがってある意味愛の駆け引きのような事を言うオフェーリアに、
「愛が欲しかったら、尼寺に行け。」と言ったのではないかと、これは相当昔から思っていた設定ですが、でもこれって私が考えたのじゃなくて、古典映画の解釈がそうなっていて、それが私の中で定着してるのかもしれません。また古い古典映画を見る事もないと思うので確認はできませんが。
「愛が欲しかったら・・」とおとなし目に書きましたが、要するに「愛欲を満たしたかったら・・」と言う意味で、この時代の貴婦人でしかも聖少女であったならば、相当聞くだけで恐ろしく感じる言葉だと思います。ノイローゼになるレベルと言うか。
とどめに父の死と言うものがあるのですが、彼女のセリフを聞いていると、彼女が精神の迷路に迷い込んだのは愛の迷路の出口が見つからなくなったからなのだと感じるのは私だけではないはずです。
2015年度版「ハムレット」はぴったりのキャストたちで演じられ、本当に素晴らしかったです。
それと「女優 満島ひかり まだ見ぬ世界へ~シェークスピアに挑む~」と言う番組は、満島ひかりの魅力ばかりでなく、そこにちらほらと映る藤原竜也の姿が贔屓筋としてはかなりの嬉しさがありました。
横浜の実家で見たのですが、ちょっと出遅れて部屋に入っていった私に妹が
「おねーちゃんの好きな人がテレビに出ているよ。」と教えてくれました。〈知っててかけてもらっていたんだけれどね。〉
ほかの姉妹も、みんな藤原竜也は好きなんです。でもこの人は「おねーちゃんの好きな人」とすでに定着しているのがちょっと嬉しく感じた私なのでした。
←お土産で買ったファイル。ファイルなので少々歪んで写ってしまいました。二枚組でもう一枚はパンフレットと同じ画像です。
このように長々と書いてしまったものを読んでくださった方、本当にありがとうございました。
本当は美術・音楽、語りつくしていないような気もするのですが、またこのお芝居と出会う時にでもと思います。
まだあるのか~って今、思った? ^^:
最後にちょっと、WOWOWの回し者になりお知らせです。
3月8日プライムにて「ジュリアス・シーザー」、3時からやりますよ~♪