森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

君は偉いね。

2018-07-22 15:05:55 | お散歩&写真日記
 
うちなる命の煌めき
歳が五つ、六つ、七つのそのあたりの私の心配事は、私は他のみんなと同じようにちゃんと死ねるのだろうかと言うものでした。私は昔から信心深い子供でしたので、何かの折には神仏に手を合わ......
 

上の囲みは昨年の7月21日に投稿したものです。

過去のブログの記事は、未来の、今の私への手紙だなと思いました。

「うんうん。」「そうかそうか。」と頷きながら、私は自分の記事を読みました。

(goo様、ありがとう。)

 

そしてまた、ちゃんと丁寧に生きたいものだと思ったのでした。

 

ところでおとといの20日の日は金曜日でしたので、短い時間のバイトですが、1時間ほど間が空いてしまうので、近頃はその時間にスーパーのイートインコーナーで、コーヒーなどを頂きながら読書タイムを取らせていただいています。

そこに向かう道で、幾分暑さも和らいだような気もさせる夜風が吹いてきました。

その道をスタスタと歩いていましたら、ふと、自分の中の命が輝いているような気持ちになりました。

今日と言う日をちゃんと生きる。今日と言う日を、ちょっとだけ頑張って生きる。ただそれだけで、そのような気持ちになれたのかも知れません。

 

 

またその日の月は、半月でありながらとっても美しく輝いていたのですよ。

私はそのように美しい月などを見ると、やはり自分の中の命も輝くような気持ちになるのです。

帰り道、美しい月の光と一緒に軽い足取りで歩いていた時、ふと私の眼の中に飛び込んできた夜のひまわり。

なんともドラマチックな光景じゃないですか。

このヒマワリは昨年の花の種が落ちて勝手に育ったノラひまわりですよ。

昨年あたりまでこの柵の中は、ひまわりとコスモスが競演するように咲き乱れていたのです。でもその時もたぶん咲き乱れていた者たちは、勝手に育ったノラさんたち。

前に管理したり手を加えていた人の名残りか、それともここなら良いかと種を捨てていく人もいたのか、その二つの花ばかりではなく、時々他の花たちも紛れていました。だけど雑草もいっぱい。

それでも道行く人を楽しませていたのです。

手を加えられなくなって持ったのは昨年までがぎりぎりだったのかも知れません。

今年は見るも無残な雑草ばかりの空き地です。

 

ここを綺麗にしていた人たちは最初はきっと張り切っていたと思うのです。少々不愉快な感じの小さな看板まで立てて自己主張までしていましたから。

だけどこういう善意は、永遠とは続かない事だと思います。人の肉体や気持ちの若さはずっと同じと言うわけにはいかないからです。それは仕方がない事だと思うし、「今まで」を評価し感謝しても良い事だと思うのです。

だけど自己主張の看板もそのまま放置。

引き際と言うものはよく言われることですが、それは「時」を指すよりも「所作」を指して大事だと言われるものかも知れませんね。

なんたって週に三日もこの道を通るので、ちょっといろいろと考えてしまう事も多かったのです。

 

だけどこのヒマワリを見よ。

川の流れのように押し流されて行ってしまう人の思惑や人の時間。

みんな関係ない。

このヒマワリは、ただ自分の命を全うさせようとしているだけ。

しかもまだ柵の内側だったら守られることも多いのに、あえて柵の外に生まれてきてしまうとは。

だけど立派なヒマワリになりました。

 

 

私はにっこりほほ笑んで、じっとヒマワリとそして遠くに輝く月を見て、なんだか勇気のようなものを貰ったような気がしたのです。

 

そして思わず私は言ってしまいました。

 

君は偉いね。

って。

 

 

 

 

 

コメント (2)
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