森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

飛び立っていくのは子燕のみにあらず

2008-07-30 11:09:06 | ’08/12/7までの未整理日記
<子供と接するお仕事をしています。>
 
         

少女が言った。
「ねぇ、何か怒っているの?」
「怒っていないよ。」と、私。
「でも、何か怖いんだけど。」
「怒っていないけれど、機嫌が悪いのかもね。
だって、あなたはね、私がずっと傍にいると思っているのだもの。
ある日、気がついたら私はあなたの傍にいないかもしれないでしょ。
それなのに、あなたは私を頼ってばかり。
同じように日々が過ぎていくとは限らないんだよ、分かっているの?」
「私、やめません。だからずっと同じです。」

「そうじゃなくて、・・」と言いかけて私は言葉を失う。

読解力もないが聴解力もない、理解力も乏しくて想像力の欠片も無い。
そんなナイナイ尽くしで依存性だけがある。

決定権は自分にあると思いこんでいる。
ずっと私が傍に居ると信じている。


だけれど・・・
深い溜息をつきながら、私はふと思う。
変わらずにここに居て、ずっと見守って居てあげる、
私はそんなものになりたいと夢見たことはなかったのか。

通り過ぎていく者達が、思い出すこともなく、挙句の果てには酷い言葉で嘲笑しようとも、私は静かに微笑んで変わらぬ場所でそこに居る、そんなものになろうと願った事はなかったのか。


『それは違うわ。』と、私の中の思慮という名前の影が語りかける。
『燕が飛び立った後、そこには空っぽの巣が残っているだけ。親燕も子燕も去っていくのよ。見守っているということはそこに留まっているということではないわ。』
辛らつな彼女は、だけど冷静に語り続ける。
『未来ばかり見つめる者に、過去と言う場所から想いを送り続けても意味のないことだと思うわ。』


フムなるほどと、私は自分の言葉に頷いてみたりする。
変わらずにそこに居て見守ると言うことは、空の巣箱に成ることではない。
飛び立った子燕が、古巣を懐かしんだり思い出すことがあったとしても、戻ってその羽を休めることは良いことではないのだ。


子供から見れば、自分の人生の3倍は生きてしまっている者は、もう旅するものではなく、そこに留まっている者に見えるだろう。
かつての私がそうだった。
私も昔は思っていた。
その年代になってしまった者たちは、もうそこにたどり着いてしまった者なのだ、そして、残りの人生の川をゆっくりと流れ流されてゆく者達なのだと。

でもそれは違かった。

空の巣箱になんかになってはいけないんだ。
飛び立っていくのは子燕ばかりではない。
飛び立った子燕には子燕の空があり、親燕には親燕の空がある。

・・・・



「-16+5=+21」少女のプリント。
「な、なんで~、ど、どうして~・・・」
「じゃあ、-21」
「『じゃあ』って何?『じゃあ』って。ちょっと待ってよ。少し考えようよ。脳を使おうよ。脳に皺をつくろうよ。顔に皺を作ってはダメだけれど、脳に皺がたくさんあるほうが美人に成れるんだよ。お肌はピンピン、だけど脳もツルツルじゃどうするの。」
「いやだ~、笑える~、だから考えられない~。」
「ああ、そ―・・・・・。」

―『だから』と言うのは、この場合間違えているだろう。

だけれど・・・、
深い溜息をつきながら、私はふと思う。


以下延々とメビウスの輪の如く自己対話は続く・・・・・



          


<子供と接するお仕事をしていました。>
と、来年の今頃は書く予定。


・・・・・予定通り、行くのか~。
なんか、微妙。



















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