ある方を通じて、建築家 池田武邦氏のことを教えていただきました。
日本初の超高層・霞ヶ関ビル(1968年4月12日竣工、地上36階、軒高147m)を設計された方です。
今は、九州の海岸沿いで藁葺きの家に住まわれているとお聞きします。
無闇やたらに超高層が都心に増えています。
本当にそれでいいのと、今一度考える必要があるのではないでしょうか。
その超高層ビルは、大震災の時、本当に大丈夫なの?小さな地震の揺れに伴う微細な構造の破損の積み重なりに本当に対応できているの?
環境負荷はかからないといっておきながら、そのビルを建て替えるときは、どれだけ大きな環境負荷がかかるの?ものや人が上下に行き来するわけであり、低層であればかからなかったエネルギー消費が、起こっているのではないの?
ビル風の風害は、実は、大きな害とみなして、きちんと評価していく必要があるのではないの?
超高層ビル自体の建て替えという先の先、孫の代までのことを本当に考えているの?
超高層で生活するひとの心への影響は、本当にないと言っていいの?
私自身、さまざまな疑問・不安を抱いております。
是非とも、池田氏のお話をお伺いしてみたいと願っています。
最近、西日本新聞『聞き書きシリーズ』で、池田氏の特集が組まれていたようです。
⇒記事の一部が見ることができます。
都市計画に関心のある方は、必見です。
http://files.me.com/catallaxy/jee2le
*****西日本新聞より*****
6面に掲載の聞き書きシリーズは4日から、建築家・池田武邦さん(85)の「超高層から茅葺(かやぶ)きへ」が始まります。
1968年4月、東京・霞が関のオフィス街に日本で最初の超高層ビル「霞が関ビル」が誕生しました。設計の中心メンバーが池田さんでした。地上36階、軒高147メートル。首都にそびえ立った霞が関ビルは、地震国・日本に超高層建築時代を切り開き、高度経済成長のシンボルともなりました。
その間に日本設計事務所(現・日本設計)を設立。建築の近代化を目指し、ひた走ります。太平洋戦争で海軍兵学校のクラスメートの過半数を亡くした池田さんの胸の内には、日本復興への貢献、の一念がありました。
71年には新宿副都心一番乗りで京王プラザホテル(地上47階、軒高170メートル)が完成。74年完成の新宿三井ビル(地上55階、軒高210メートル)も手掛け、その50階にオフィスを構えて日本の超高層設計をリードしていきます。
ところが絶頂期のさなか、ある体験を契機に近代技術文明に疑問を抱きます。近代合理主義に基づいた池田さんの設計思想は180度転換し、人と自然との共存が最大のテーマになりました。以後、長崎県佐世保市のハウステンボスの設計や日本固有の文化に基づいた地域づくりに情熱を注ぎます。
神奈川県藤沢市で育ち、東京で活動してきましたが、現在は長崎県・大村湾の岬に建てた茅葺き屋根の家で大半を過ごしています。敗戦から復興、高度経済成長、そして科学技術と自然文化の葛藤(かっとう)。戦後日本の歩みそのものといえる池田さんの軌跡を聞き書きでたどります。
聞き手は原田正隆・長崎総局長です。
=2009/05/03付 西日本新聞朝刊=
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