今、なぜ、福沢諭吉なのか。
これだけ「文明化」を日本で達成しておきながら。。。
私にとって、福沢が文明化を求めて書いた『学問のすすめ』も『文明論之概略』を、いまだに大いにうなづけるところがあるのです。
その理由を、丸山真男が気づかせてくれました。
丸山真男は、『「文明論之概略」を読む』のなかで、第六章「知徳の弁」の解説を終わるにあたり、補足をしています。
<知の建築上の構造>
information(情報)
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knowledge(知識)
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intelligence(知性)
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wisdom(叡智)
福沢は、「知」という場合、「聡明叡智の働き」という言葉を使うように、全部を一緒になって言っています。知の「未分化性」、よく言えば「総合性」を示しています。
そうではあるものの、特に下半分の「知性」や「叡智」に重きを置いて書いています。
福沢は、智の進歩をたんに“情報量”の増加としてでなく、人間の思考様式の変化というレベルで取り上げているのです。
なお、福沢が、どういう社会において、智を唱えたかを頭においておく必要もあろうかと思います。
「社会問題のすべてが徳義で解決されるという建前が支配している社会」で、人々全体の知力を増すための議論を展開したのです。
現代の社会と状況が大きく異なっている中で、福沢が著したものであることを忘れてはなりません。
丸山は、「情報社会」の問題性は、底辺に「叡智」があり、頂点に「情報」が来る三角形の構造が、逆三角形になって、情報最大・叡智最小の形をなしているところにあると指摘しています。
「叡智」と「知性」が「知識」にとって代わられ、「知識」がますます「情報」にとって代わられようとしています。
おそらく、私たちが真に身に着けねばならない「知」、いまや軽んじられている「叡智」と「知性」のありようが、福沢諭吉の『学問のすすめ』も『文明論之概略』に書かれているがゆえに、私自身大いに感銘をうけるのであると思います。
現代の教育の中で、「生きる力」「総合学習」という言葉が出てきた背景は、「叡智」と「知性」をいかに身に着けてもらうかという視点があったのだと推察します。
「叡智」と「知性」を習得できる教育を目指したいものです。
これだけ「文明化」を日本で達成しておきながら。。。
私にとって、福沢が文明化を求めて書いた『学問のすすめ』も『文明論之概略』を、いまだに大いにうなづけるところがあるのです。
その理由を、丸山真男が気づかせてくれました。
丸山真男は、『「文明論之概略」を読む』のなかで、第六章「知徳の弁」の解説を終わるにあたり、補足をしています。
<知の建築上の構造>
information(情報)
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knowledge(知識)
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intelligence(知性)
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wisdom(叡智)
福沢は、「知」という場合、「聡明叡智の働き」という言葉を使うように、全部を一緒になって言っています。知の「未分化性」、よく言えば「総合性」を示しています。
そうではあるものの、特に下半分の「知性」や「叡智」に重きを置いて書いています。
福沢は、智の進歩をたんに“情報量”の増加としてでなく、人間の思考様式の変化というレベルで取り上げているのです。
なお、福沢が、どういう社会において、智を唱えたかを頭においておく必要もあろうかと思います。
「社会問題のすべてが徳義で解決されるという建前が支配している社会」で、人々全体の知力を増すための議論を展開したのです。
現代の社会と状況が大きく異なっている中で、福沢が著したものであることを忘れてはなりません。
丸山は、「情報社会」の問題性は、底辺に「叡智」があり、頂点に「情報」が来る三角形の構造が、逆三角形になって、情報最大・叡智最小の形をなしているところにあると指摘しています。
「叡智」と「知性」が「知識」にとって代わられ、「知識」がますます「情報」にとって代わられようとしています。
おそらく、私たちが真に身に着けねばならない「知」、いまや軽んじられている「叡智」と「知性」のありようが、福沢諭吉の『学問のすすめ』も『文明論之概略』に書かれているがゆえに、私自身大いに感銘をうけるのであると思います。
現代の教育の中で、「生きる力」「総合学習」という言葉が出てきた背景は、「叡智」と「知性」をいかに身に着けてもらうかという視点があったのだと推察します。
「叡智」と「知性」を習得できる教育を目指したいものです。