(ほうづきえき 浜松市北区三ヶ日町日比沢)
天長十年(833)大地震により古東海道が被害を受け、猪鼻駅(宿駅)(現湖西市吉美付近)が不通となった。それにより、引摩駅(現磐田市東町)から北側に迂回し、この板築駅を設け、本坂を経て後の姫街道とほぼ同様の経路に変更された。然し、被害を受けてから十年後には、元の経路に戻されたという。
天長十年(833)大地震により古東海道が被害を受け、猪鼻駅(宿駅)(現湖西市吉美付近)が不通となった。それにより、引摩駅(現磐田市東町)から北側に迂回し、この板築駅を設け、本坂を経て後の姫街道とほぼ同様の経路に変更された。然し、被害を受けてから十年後には、元の経路に戻されたという。
昼間は比較的静かな沖縄も、日が落ちるとともに賑やかさを現す。特に那覇は、県外から訪れる観光客が多いため、果たしてここは沖縄か?という場面をよく目にする。然し、ここは明らかに南の島。訪れる者も、どことなく異なる雰囲気が現れていた。
(有東砦 静岡市駿河区有東)
八幡山の南、標高35mの静岡県で二番目に低い山には、今川氏臣福島氏が築いた砦が存在した。後に武田信虎が入ったという。
(静岡駅方面)(駿河区役所方面)
砦跡には、南斜面に有東神社、東側に黄檗宗聖光寺、北側には曹洞宗金剛寺が建つ。
八幡山の南、標高35mの静岡県で二番目に低い山には、今川氏臣福島氏が築いた砦が存在した。後に武田信虎が入ったという。
(静岡駅方面)(駿河区役所方面)
砦跡には、南斜面に有東神社、東側に黄檗宗聖光寺、北側には曹洞宗金剛寺が建つ。
(佐賀県西松浦郡有田町)
有田(平戸)街道から裏手に入ると、茶色の塀が姿を現す。これは、有田焼の窯焼成室の耐火煉瓦(トンバイ)や、鉢、陶片等の窯廃材を用いた土塀であり、主に窯元の周囲に築かれている塀である。
有田(平戸)街道から裏手に入ると、茶色の塀が姿を現す。これは、有田焼の窯焼成室の耐火煉瓦(トンバイ)や、鉢、陶片等の窯廃材を用いた土塀であり、主に窯元の周囲に築かれている塀である。
(三ヶ日町立西小学校日比沢分校 浜松市北区三ヶ日町日比沢)
日比沢分校は、明治31年(1898)西浜名村立西浜名尋常高等小学校日比澤分教場として開設された。現存する校舎は、昭和25年(1950)に築造されたものであり、金属供出によってコンクリート製になった二宮金次郎像が校舎の横に残っている。昭和44年(1969)日比沢分校は廃止され、その後民間に払い下げられた。
日比沢分校は、明治31年(1898)西浜名村立西浜名尋常高等小学校日比澤分教場として開設された。現存する校舎は、昭和25年(1950)に築造されたものであり、金属供出によってコンクリート製になった二宮金次郎像が校舎の横に残っている。昭和44年(1969)日比沢分校は廃止され、その後民間に払い下げられた。
(静岡市葵区伝馬町 市指定史跡)
西郷隆盛と山岡鉄太郎(鉄舟)が会見した松崎屋源兵衛宅がかつてこの地に存在した。慶応四年(1868)江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と、幕府の陸軍参謀、勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎の会見が三月九日に松崎屋源兵衛宅で行われた。山岡から手渡された、海舟の戦争を回避してほしい旨の書簡に、西郷側から七ヶ条の降伏条件が示された。十五代将軍徳川慶喜の処遇始め、城の明け渡しや軍艦の引き渡し、軍器一切の引き渡し等を求めるものであったとされる。
石碑は明治100年を記念して、昭和43年(1968)会見跡地に建れられたものである。以来、40年以上の年月が流れ、辺りは再開発により一変した。
西郷隆盛と山岡鉄太郎(鉄舟)が会見した松崎屋源兵衛宅がかつてこの地に存在した。慶応四年(1868)江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と、幕府の陸軍参謀、勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎の会見が三月九日に松崎屋源兵衛宅で行われた。山岡から手渡された、海舟の戦争を回避してほしい旨の書簡に、西郷側から七ヶ条の降伏条件が示された。十五代将軍徳川慶喜の処遇始め、城の明け渡しや軍艦の引き渡し、軍器一切の引き渡し等を求めるものであったとされる。
石碑は明治100年を記念して、昭和43年(1968)会見跡地に建れられたものである。以来、40年以上の年月が流れ、辺りは再開発により一変した。
(いしきはま 沖縄県南城市知念字久高)
琉球国生みの際、シラタルーとファガナシーの二神が五穀の入った壺を海から拾ったのが、この伊敷(いしき)浜とされる。
付近には、カベール岬と同様な植物群落がみられる。
琉球国生みの際、シラタルーとファガナシーの二神が五穀の入った壺を海から拾ったのが、この伊敷(いしき)浜とされる。
付近には、カベール岬と同様な植物群落がみられる。