(愛知県宝飯郡一宮町東上字丸塚 1983年踏査)
丸塚古墳は本宮山から延びる台地の豊川縁端に位置する3基からなる古墳である。1号墳は墳頂に丸塚稲荷神社が建てられ削平されているが、高さ2m,直径20mを計る。
(佐賀県唐津市本町 市指定重要文化財)
明治45年(1912)に築造された、鉄骨煉瓦造二階建塔屋付、地下一階、延床面積907㎡の銀行建築である。設計は建築家の田中実、監修は唐津出身の辰野金吾である。昭和6年(1931)西海商業銀行と合併し、佐賀中央銀行唐津支店となり、昭和30年(1955)には佐賀興業銀行と合併し、佐賀銀行唐津支店となった。平成9年まで使用されたが、市内米屋町に新築移転し、旧支店は市に寄贈され復原工事を経て一般公開された。
修復痕
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(東京都台東区上野公園)
上野公園へは数多く訪れているが、この上野大仏に対面することはなかった。上野大仏は寛永八年(1631)越後村上藩主堀直寄が漆喰の釈迦像を建立したことに始まる。その後、金銅製の像となり、仏殿が建てられた。然し、天保十二年(1841)に火災、安政二年(1855)安政地震によりそれぞれ損傷したため、越後村松藩主堀直央により6mの像に再建された。明治8年(1875)上野恩賜公園整備により仏殿が撤去され露座となり、大正12年(1923)関東大震災により倒壊。破片は寛永寺に保管されたが、戦時中に金属供出された。顔部分のみが残され、昭和42年(1972)現在のレリーフとして建てられている。
(舞鶴城 佐賀県唐津市)
文禄五年(1595)豊臣秀吉臣寺沢広高が肥前唐津に封ぜられ、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでの功により、肥後天草四万石を合わせ十二万三千石の大名となった。築城の際、東唐津側と地続きであった主郭となる満島山の裾を切削し、松浦川をそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更、旧流路の埋め立てをして、川岸を利用し柳川堀、肥後堀等を築いた。
肥後堀石垣
二の門堀
広高の子堅高(かたたか)は、自領地の天草富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められ、その責任を取らされる形で天草領四万石を没収された。堅高は、正保四年(1647)に江戸藩邸で自害し、嗣子がなかったために寺沢家は断絶、改易となった。一時天領となったが、慶安二年(1649)播磨明石大久保忠職が城主となった。然し、延宝六年(1678)大久保氏が下総佐倉に移封し、代わって同地より大給松平乗久が入城。元禄四年(1691)大給松平氏が志摩鳥羽に移封、同地より土井利益が入城。宝暦十二年(1762)土井氏が下総古河に移封し、三河岡崎より水野忠任が入城。文化十四年(1817)水野忠邦が遠江浜松に移封し、陸奥棚倉より小笠原長昌が入城、以後廃藩まで小笠原氏の居城となった。
石垣の修繕工事
高島
松浦川・虹の松原・鏡山
明治10年(1877)舞鶴公園として整備、開放され、昭和41年(1966)五層の模擬天守を築造、門、櫓も再建された。平成元年(1989)肥後堀と石垣が復元され、平成4年(1992)には二の丸跡に「時の太鼓」を復元。更に平成5年(1993)三の丸辰巳櫓が復元された。
二の門堀 旧松浦川口
柳堀 三の丸辰巳櫓
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(にしかさい 東京都江戸川区西葛西)
年越しはこの地に宿をとった。西葛西は字の如く、西の葛飾(かつしか)の西を表す。西葛西は昭和44年(1969)帝都高速度交通営団東西線の開業により発展したまちである。それまでは東京湾に面した小さな集落であった。まちの雰囲気は東京というより愛知県三河地方といった感じを受ける。
ウシュベツ川はアイヌ語で鹿の蹄(ひづめ)跡が辺りに多い川と訳されるが、ウシ(ところ)・シ(大きい)・ペッ(川)と訳しても良いかもしれない。石狩川の支流であるこの川は、流量に比べ川幅が狭く氾濫が絶えなかったが、流路変更や放水路掘削(永山新川)等で解消されている。
石狩川との合流付近
リベライン旭川パーク
(愛知県蒲郡市五井町岡海道・中郷 1983年再訪)
五年振りに五井城を訪れる。以前、城跡に建つ長泉寺の住職に話を伺ったことがあった。また、寺の東側に延びる土塁が以前より短くなっていたことが気になった。
五井城は文治年間(1185-90)源(新宮)行家が館を構えのが最初である。続いて鵜殿氏が入ったが、岩津城主松平信光の子忠景がこの地に移り、五井松平を名乗った。二代目元心は額田郡深溝(ふこうず)城を攻め落とし、弟忠定を深溝松平初代とした。三代信長は松平広忠に仕え、四代忠次は安城合戦に活躍した。天文十六年(1547)碧海郡矢作川の渡河原(岡崎市渡町)で織田方についた山崎城の松平信孝勢との戦いで討死にした。五代景忠は永禄三年(1560)知多郡丸根砦を攻め、永禄十一年(1568)には遠江進に攻し、元亀三年(1572)三方原の戦いに加わった。天正三年(1575)の長篠の戦いの際には、籠城する奥平貞昌の加勢として参加している。天正十八年(1590)六代伊昌のとき、家康の関東移封に伴って下総国印旛郡に移り五井城は廃城となった。
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