(かんべさん おやくしさん 愛媛県今治市蔵敷町)
推古天皇の頃、朝鮮半島から「鉄人」を大将とする約八千人の大軍が日本に攻め込んできた。鉄人は呪術を使い、全身を鉄の鎧で覆っていたという。鉄人は、まず九州へ上陸し、その後、都を目指して進軍してきた。天皇は討伐のため、文武両面に秀で、勇猛で知られる伊予国の越智益躬(おちますみ)を差し向けた。 益躬は、三島神社に詣でたところ「鉾を鏃にして隠し持ち、鉄人の隙を伺って殺すべし」という神託を得た。わざと降参し、道案内をする振りをして鉄人を油断させた。播磨の明石に差し掛かると、俄かに空が曇り、雷鳴が轟き、三島大明神が姿を現した。鉄人がおののいた一瞬、益躬は懐に隠していた鏃を放ち、鉄人を射殺したという。足の裏だけが鎧で覆うことができず、そこが鉄人の弱点であったという。益躬が鉄人を倒したところを大蔵谷といい、この地に三島大明神の社(稲爪神社)を建てた。その他、五十崎町森ノ宮、今治市蔵敷の鴨部神社も益躬が祀られてる。 これらの功により、伊予国越智郡の大領に任じられた。また、「今昔物語」の記述では、益躬がこの世を去るとき、この世のものと思われない音楽と馨しい香りが立ち込めたという。
鴨部神社境内には「越智益躬墳墓地」とあるが、益躬は郡内朝倉(樹之本古墳)に葬られている。また、鴨部神社付近の旧字も樹ノ本という。
東禅寺は鴨部神社の西隣にあり、益躬が鉄人と戦った際に戦死した家臣の霊を弔うために開山したものという。天平元年(729)益躬の裔玉澄も行基作の本尊を寄進している。また、河野通信もここで生まれ、後に伽藍を建立した。更に元弘三年(1333)には河野通綱が、文明三年(1471)には河野通昭が、永正十五年(1518)には河野通宣によって堂宇が再建されている。然し、昭和20年(1945)空襲によって国宝に指定されていた薬師堂は焼失したが、本尊の薬師如来は難を逃れた。
このとき、近くであった私の父の家も被災している。また、父が子どもの頃、この東禅寺から鴨部神社へ向けて横切っていく火の玉を見つけ、捕まえたら消えてしまったという父が語っていた話を思い出す。
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(北海道函館市元町 道有形文化財)
明治13年(1880)に築造された、煉瓦造、瓦葺き平屋建ての倉庫である。煉瓦には開拓使直営の茂辺地煉瓦石製造所(旧上磯町現北斗市)の製品が使用された、明治40年(1907)の大火以前の貴重な建物である。
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(愛知県岡崎市矢作町宝珠庵 旧郷社 1982年参拝)
日本武尊(やまとたける)はこの地の住民から、賊の退治を依頼された。日本武尊は矢を作る職人である矢作部に矢を作るよう命じた。然し、矢を作るための竹は流れの速い川の中州にあったため、取りに行くことができなかった。そのとき、一匹の蝶が現れ人の姿となり竹を切り取ってきた。矢作部たちはこの竹を用いて一万本の矢を作り、日本武尊はこの地に素戔嗚尊(すさのをのみこと:神仏習合時代は牛頭天王)を祀って賊を討ち果たしたのが地名としての矢作(やはぎ)の始まりという。
また、永保三年(1083)源義家が陸奥守として奥州に向かう際に、日本武尊の故事にならって矢作神社に参拝したとされる。更に建武二年(1335)新田義貞が足利尊氏との戦で戦勝祈願を行った際に、神社の前にあった石が唸り、これを神の加護と信じて戦って、新田義貞が勝利を収めたとされる。それを「うなり石」と呼び、現在も矢竹とともに祀られている。建徳・文中年間(1370-1375)兵火により焼失したと伝えられ、天文年間(1532-55)に岡崎城主松平広忠が祠を現在地から北西約500mの矢作町字祇園に再建し、天正年間(1573-92)矢作川の決壊後に、本殿を宝珠稲荷(現在地)に合祀したという。
(かいで 京都府向日市鶏冠井町)
当初は蝦手井(かえるで)と言う地名であったが、次第に訛って 「かいで」と呼ばれるようになったという。安元二年(1176)長岡京の内裏跡に徳大寺家の別荘が建てられ、敷地内に楓(かえで:別名 鶏冠木:かえるで)を植え、また、近くに井(=泉)があったことから、鶏冠井と称するようになったとも言われている。
(ゆぶじま 沖縄県八重山郡竹富町古見)
西表島から浅瀬を渡る水牛車に乗ると、すぐ由布島となる。島は周囲約2kmの海流によって形成された「砂州」である。そのため台風の高潮等の被害を受けやすく、かつて多く住んでいた人々も島を離れていった。今は他地方からの来訪者が多くを占める島となっている。
(西表島を振り返る) (ブーゲンビレア)(ハイビスカス) (オオベニゴウカン)
(アトロブルグレア)
(夜行性のリュウキュウイノシシ)
(外交官の家 横浜市中区山手町 旧所在地:東京都渋谷区 国指定重要文化財)
明治43年(1910)アメリカ人建築家ジェームズ・マクドナルド・カーディナーによって設計された木造二階建塔屋付、延床面積412㎡の住宅である。明治政府の外交官であった内田定槌(さだづち)の住居であり、平成9年に同親族より寄贈され、この地に復元された。
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(北海道函館市元町 道有形文化財)
函館区公会堂の下方、明治43年(1910)に築造された、木造二階建て、ルネサンス様式の庁舎である。昭和25年(1950)まで北海道庁渡島支庁庁舎として使用され、昭和32年(1957)からは函館市准看護婦養成所、失業対策事業作業所等として利用された。昭和57年(1982)に元町公園整備を機に修理されるも、平成3年に火災が発生し内部を焼失。以後修復工事が行なわれ、現在は函館市写真歴史館・函館市元町観光案内所として利用されている。
(函館庁舎と公会堂)
隣接して旧開拓使函館支庁書籍庫がある。
(愛知県新城市大宮字大ノ木 市指定史跡 1982年再踏査)
茶臼山の東、大宮川に沿った雁峯山の扇状地に位置する縄文時代晩期後葉(三河地方編年五貫森式:豊橋市大村町五貫森遺跡)から弥生時代中期(大宮式)にかけての遺跡である。
(昭和5年 夏目新州建立)
(※平成6年に圃場整理が行われたため、写真の光景は残っていません)
(京都府向日市鶏冠井町)
徳治二年(1307)僧日像によりそれまでの真言寺を「真経寺」として日蓮宗の寺院に改宗したのが始まりである。承応三年(1654)北真経寺と南真経寺が分離、この北真経寺には檀林(学問所)が置かれた。
(府文 旧講堂)