(船山塚古墳 愛知県宝飯郡御津町広石字船山 町指定史跡 1983年再踏)
新宮山の東麓に位置する、全長37m,6世紀半ばに築造された前方後円墳である。北西側は蜜柑畑、南東側は宅地となっており、付近からは土師質及び須恵質の埴輪片が散見している。
(のぼりばた 愛媛県今治市登畑)
霊仙山麓、富田川(頓田川)に面するこの地に、三宅川永昌入道越智通常(おちみちつね)は館を構えた。通常は最初、伊勢国宮川(三重県伊勢市)を領していたが、永禄十二年(1569)一条兼定の招きに応じて土佐国赤岡・岸本(高知県香南市)に転じ、長宗我部元親と戦ったが戦い利なく敗退し、越智・河野姓時代からの所縁の地である伊予国の越智郡登畑に転じて館を構えた。天正十年(1582)異端であった通常は安芸竹原(広島県竹原市)で討死し、子の通安はその父の生涯から武門を捨て、父の亡骸をこの地に埋葬、祖先からの菩提を弔うため天祐寺を建立した。
通常の晩年、隣村の高市から遷宮した三島神社
(もうつうじ 天台宗医王山毛越寺金剛王院 岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢 世界文化遺産 国指定特別史跡・名勝)
観自在王院の西側、嘉祥三年(850)に中尊寺と同じく僧円仁によって開創した寺院とされる。その後火災等で荒廃したが、平安時代後期に藤原基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)らによって再興され、「吾妻鏡」(あづまかがみ:中世の歴史書)には、堂塔四十余宇、僧坊五百余宇であったとしている。然し、嘉禄二年(1226)再び火災に遭い、更に天正元年(1573)には、葛西氏と大崎氏による兵火に遭って本尊と僧堂を除き焼失した。現在残る伽藍は、享保十七年(1732)に再建された常行堂以外、明治以降に建てられたものである。戦後、発掘調査が開始され、次第に現在の姿に整備されていった。 (大泉ヶ池) (講堂跡)(金堂円隆寺跡) (遣水:やりみず)
(宝冠阿弥陀如来と常行堂)
(京福電気鉄道北野線 嵐電 京都市右京区・北区)
嵐山本線帷子ノ辻(かたびらのつじ)から北野白梅町を結ぶ、全長3.8kmの専用軌道線である。大正14年(1925)高雄口(現宇多野)・北野(京都市電移行後に廃止)間を開業した京都電燈が始まりであり、翌年には嵐山本線と繋がった。そして、昭和17年(1942)京福電鉄に譲渡されている。バブルの頃から北野白梅町と出町柳を結ぶLRT構想があるが、進展はみられない。
(モボ101形) (モボ621形)
(北海道函館市大町)
基坂(もといざか)を下ると、暗闇の中にグリーンの建物が現れた。大正2年(1913)に建てられた、木造二階建瓦葺、ルネサンス様式の会社社屋である。文久三年(1863)創業の「相馬」は、米穀商、海産物商、不動産商等で成長し、函館区公会堂建設等にも私財を投じている。
(名古屋鉄道挙母線大樹寺駅 愛知県岡崎市鴨田町 1983年の光景)
大正13年(1924)岡崎電気軌道大樹寺駅として開業、昭和2年(1927)三河鉄道岡崎線の駅となり、昭和16年(1941)からは名古屋鉄道岡崎線の途中駅として営業していた。昭和23年(1948)には挙母(ころも)線と改称したが、昭和37年(1962)岡崎井田・福岡町間の岡崎市内線が廃止されたため、隣駅の挙母線としての終点、大樹寺・岡崎井田間0.5kmが廃止された。そして、昭和48年(1973)には挙母線全線が廃止され、駅舎は代替バスの待合所として余生を送ることとなった。
(北海道苫小牧市 国指定鳥獣保護区 ラムサール条約登録湿地)
苫小牧の市街地に程近い位置にある、周囲約9kmの淡水湖である。海跡湖であるため海抜も3mと低く、水深も1.5m以下と浅い。湖に向かって多くの川が流れ込む様から、アイヌ語でウッ(あばら骨)・ナイ(川)・トー(沼)あばら骨の湖=小川が集まるところを意味し、ウトナイ湖と名付けられた。辺りはハクチョウ、カモ等260種以上もの野鳥が確認され、サンクチュアリ(渡り鳥の中継地、越冬地 )として貴重な場所となっている。
(沖縄県八重山郡竹富町伊古 国登録有形文化財)
昭和10年(1935)それまでの木造桟橋に代わって築造された、石積みコンクリート(モルタル)張り、長さ354m,幅4.3mの桟橋である。台風の襲来ごとに少しずつ損壊し、時が進むにつれてその姿を変えている。
(小浜島) (現在の港、黒島港方面)
(臨済宗大雲山龍安寺 京都市右京区龍安寺御陵下町 世界文化遺産 国指定重要文化財 特別名勝)
龍安寺は宝徳二年(1450)それまで徳大寺家の山荘であった場所に細川勝元によって創建されたが、応仁の乱で焼失。長享二年(1488)勝元の子政元と、龍安寺四世特芳禅傑によって再興された。境内方丈には、方丈庭園 「龍安寺の石庭」があり、長方形のさほど広くはない枯山水に十五個の石を配した庭であるが、置かれている石を全て見ることはできないという。これは、立場によって見え方、言い分が違うことを表しているともされている。
(北海道函館市元町 市指定有形文化財)
大正2年(1913)に築造され、昭和9年(1934)まで領事館として使用された建物である。その後は戦時中の接収を除き、函館市立病院の施設として昭和54年(1979)まで使用され、平成4年からは開港記念館として使用されている。