(東京都世田谷区上馬)
合成地名駒沢の由来の一つである上馬は、かつて上馬引沢村と呼ばれ、文治五年(1189)源頼朝が奥州討伐に向かう途中、蛇崩の沢に差し掛かったとき、突然頼朝の馬が暴れ、沢に落ち死んだ。頼朝は「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡したので、以後馬引沢と呼ばれるようになったという。
(とば 三重県鳥羽市 2005年12月31日)
大晦日の南勢を訪れる。風待ち、船泊まりの港として古くから栄え、止まる、あるいは泊まる場所として「とば」と名付けられたという。近世初頭は鳥羽藩九鬼氏が統治した。
(愛知県岡崎市真宮町 2005年12月25日)
社伝によると、成務天皇年間(131-90)熊野速玉神社(新宮)より熊野夫須美大神(伊弉冉尊:いざなみのみこと)を勧請したことにより、真宮(新宮)と称する。かつて皇族六兄弟姉妹の産石を神の依代とし、地区の旧地名、六名(むつな)の由来となったと伝わる。
(東京都目黒区下目黒)
目黒の鎮守大鳥神社は、社伝によると景行天皇年間(71-130)に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の祈願をするため、この地にあった国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る社に参詣し、また臣下の眼病治癒も祈願し、共に成就したことから盲神と称し、十握剣を献納したという。また、社名は尊の霊が当地に白鳥として現れ、鳥明神として祀ったことによるという。大同元年(806)新たに日本武尊を主祭神として祀るため、社殿を造営したという。
(東京都目黒区下目黒 国指定史跡)
元禄十一年(1698)日本橋の魚屋に生まれた青木昆陽は、京の古義堂で儒学を学び、後に江戸町奉行所加藤枝直に推挙され、大岡忠相によって幕府の書物閲覧が許されて「蕃藷考」(ばんしょこう)を刊行した。その後、徳川吉宗から甘藷(サツマイモ)の栽培を命じられ、試作に取り組み普及させて以後の飢饉の際の救済に貢献した。元文元年(1736)薩摩芋御用掛を、元文四年(1739)御書物御用達をそれぞれ拝命した。その後の幕臣となり、徳川家旧領の古文書を研究し「諸州古文書」を刊行。晩年は書物奉行となり、明和六年(1769)に没した。
(鎧堤 愛知県豊川市院之子町・柑子町 2005年12月20日)
不連続な霞堤は、増水時に堤防にかかる負荷を抑えるのと、水を一時的に逃がすことで流水量を抑え、且つ排水を容易にする役割を持つ中世からの知恵である。この院之子地区では、霞堤に沿って水路が設けられ、輪中地帯を形成している。
(東京都目黒区下目黒)
目黒不動の門前に比翼塚がある。比翼塚とは婚姻関係問わず愛し合った男女を一緒に埋葬した墓のことであり、この比翼塚は鳥取藩士であった白井権八と吉原の遊女小紫の墓である。権八は父の同僚を斬殺して江戸に逃亡し、小紫と出逢い付き合うも、困窮から百三十人もの辻斬りをし金品を奪い、目黒にあった東昌寺に匿われた。そこで虚無僧となった権八は郷里に帰るが、両親は既に他界していることを知り自首したとされる。延宝七年(1679)品川鈴ヶ森処刑場で処刑された。それを知った小紫は後を追い自害。二人は東昌寺に埋葬されたが、後に東昌寺が廃寺となったため現在地に移されている。
(天台宗泰叡山瀧泉寺 東京都目黒区下目黒)
目青不動等江戸五色不動の一つである。寺伝では大同三年(808)円仁(慈覚大師)によって創建され、貞観二年(860)清和天皇より山号を賜ったという。徳川家光が庇護し、伽藍を造営して以降は繁栄した。
(愛知県一宮市本町通 2005年12月17日)
市街地に広い境内を持つ真言宗の寺院である。寺伝では奈良時代に行基開山とされ、鎌倉時代に空円によって中興されている。中興の際に制作された地蔵、阿弥陀、不動像と涅槃図が市指定文化財となっている。