(静岡県浜名郡三ヶ日町宇志 町指定史跡 1983年踏査)
神亀三年(726)僧行基創建とされる新達寺が富幕山腹(引佐町奥山)にあった。然し、新羅人により焼討ちに遭い焼失したという。その後、新達寺の僧達が往時の面影として、本尊であった千手観音を祀る観音岩真萱堂と瓦塔(がとう:瓦製の塔)を再建。然し、平安後期に大風で倒壊したため、領主濱名縣主(はまなのあがたぬし)が近隣に摩訶耶寺を建立したという。
(鶴ヶ城 黒川城 福島県会津若松市 国指定史跡 日本100名城12番)
この地には、元中元年/至徳元年(1384)蘆名直盛(あしななおもり)によって館城が築かれたのが始まりという。天正十七年(1589)伊達政宗が攻め、蘆名氏の城は落城した。然し、翌年には豊臣氏のものとなり、文禄元年(1592)には同氏臣 蒲生氏郷が九十二万石で入城し城郭が拡大され、地名も黒川から若松に改められた。慶長三年(1598)子の秀行のとき蒲生騒動が起き、十八万石で下野宇都宮へ転封となった。代わって越後春日山より上杉景勝が百二十万石で入城したが、関ヶ原で西軍に味方したため、三十万石で出羽米沢に転封されている。再び蒲生氏の居城となったが、寛永四年(1627)伊予松山に転封、同所より加藤嘉明が入城、子の明成のとき城を修築したが、会津騒動が起き改易となった。そして、出羽山形より徳川家光の庶弟である保科正之が二十三万石で入封。以後、会津松平家(三代目から改姓)で廃藩を迎えた。慶応四年(1868)には戊辰戦争が起き、薩摩、長州の新政府側と旧幕府側の会津勢との間で対立となり戦いが起きた。(会津戦争) 会津勢は若松城に一ヶ月にわたって立て籠り、持ちこたえたものの、若き白虎隊隊員の自害など、悲しい歴史も今に伝えられている。
二の丸堀
二の丸石垣
内堀
旧大手口廊下橋
本丸帯郭石垣 武徳殿方面 磐梯山方面
平成13年再現の走長屋と昭和40年再現の天守(平成23年赤屋根再現化)
干飯櫓(平成13年再現)
荒城の月碑
お城ボくん
太鼓門武者走
西出丸
(関連記事:蒲生氏郷墓所)
(ぐしちゃんぐすく 沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭)
太平洋と白水川に挟まれた標高50mの丘陵には、14世紀に英祖王統第二代大成王第三子、具志頭按司(あじ)によって築かれた城(ぐすく)がある。15世紀に南山王によって攻め落とされている。 また付近は、沖縄戦の激戦地であったため、供養塔が設けられている。
沖縄戦土佐の塔慰霊碑
御嶽
高ヤックヮ:櫓跡
沖縄戦甲斐の塔慰霊碑
(関連記事:具志頭)
(奈良市多門町・法蓮町・川上町)
東大寺転害門から北西に向かうと多聞山がある。現在は若草中学校となっているが、かつては松永氏の城郭があった。三好長慶臣松永久秀は、永禄三年(1560)佐保丘陵の眉間寺跡にこの城を築く。永禄八年(1565)永禄の変で三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と組んで足利義輝を暗殺するも、後に分裂。三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、久秀との戦いが始まった。永禄十年(1567)には順慶と三人衆連合軍が陣を敷く東大寺に多聞城より襲撃し、火を放って勝利した。その後、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。久秀は信長に拝謁し、信長に属することになった。多聞城は織田方に渡り、明智光秀そして柴田勝家が城主となった。天正三年(1575)には織田氏臣塙直政(ばんなおまさ)が城主となったが、翌年の石山合戦で討死。筒井順慶が大和国守護となると多聞城は廃城となった。その頃久秀は、信長に謀反を起こし信貴山城の戦いで自害している。
眉間寺時代の墓塔
(富山市丸ノ内)
富山市立図書館は富山城跡にあり、現在の建物は昭和45年(1970)に建設された、RC造7階、延床面積6961㎡の施設である。本館の蔵書数は約37万点、24の分館合わせた総蔵書数は約90万点である。昭和46年(1971)から導入された自動車文庫「よまんまいかー」は3台あり、市内150ヵ所を巡回している。
(青森県弘前市駅前通)
弘前駅から駅前通を通り弘前城に向かう途中に出会った光景。
高度成長時期のボーリングブームから少し遅れて開業。一階には同店が運営するスーパー「マルサン」が入居していた。然し、ブームの衰退と市街地ドーナツ化により平成13年に閉店。それ以後は放置されている。
(福島県会津若松市)
この日は郡山を経由して、磐越西線で会津入りをした。城下町として有名な若松であるが、その盆地地形を表すように、多くの街道が集まる交通の要衝としても栄えた。羽州浜街道新発田宿に至る越後(会津)街道。日光街道今市宿に通じる下野(会津西)街道。奥州街道終点白河宿に至る白河街道。喜多方を経由する米沢街道。磐梯、猪苗代を経て、奥州街道と合流する二本松街道のいわゆる会津五街道。そして、只見を経て上野沼田に至る会津沼田街道。福島街道等がある。人々が多く交差した地ながら、地形の様に人々の閉塞感は否めなかった。
背あぶり山
多くの家が密集し名づけられた千軒道
牛ヶ墓の町並み
白河街道、二本松街道沿いの旧滝沢本陣(国指定史跡・重要文化財)
延宝六年(1678)建造
(関連記事:会津若松城 蒲生氏郷墓所 蚕養国神社)
(てがいもん 佐保路門 奈良市手貝町 世界文化遺産 国宝)
東大寺最古の建造物ながら、同寺北西の住宅地の中にひっそりと佇んでいる門である。天平宝宇(757-765)築造とされ、鎌倉時代に修理されたとみられる八脚門である。