この日は午前中、瓦生産が盛んな菊間町を訪れ、午後二時今治を後にした。駅は予讃線高架化による駅舎改築工事が行われており、仮線、仮駅舎での営業が行われていた。次回訪れるときには、新駅舎になっていることであろう。
この日は午前中、瓦生産が盛んな菊間町を訪れ、午後二時今治を後にした。駅は予讃線高架化による駅舎改築工事が行われており、仮線、仮駅舎での営業が行われていた。次回訪れるときには、新駅舎になっていることであろう。
現地でバスに乗り込み、ガイドさんが、「鹿児島空港で降りられなくて、霧島温泉で路線バスに乗り換えですね」といった。そのとき運転手さんが「もし遅れたらタクシーになってしまいますので、そうなるとタクシーで空港までだと一万円を出てしまいますよ。だったら他の皆さんを温泉で降ろしたら、空港までお送りしますのでそのままご乗車ください」機転の利いた運転手さんにとてもありがたかった。空港までの道のり、ガイドさんとお話をしながら楽しいひとときを過ごせた。そして待ち時間の間、空港に隣接して立っている西郷公園の像高10.5m隆盛銅像へ立ち寄り、鹿児島の思い出を深く刻み込んだ。
この日は今治市図書館内の郷土史編さん準備室に立ち寄り、その後、大三島へ向かった。大山祇神社参拝の後、上浦町歴史民俗資料館を見学し、縄文時代前期から晩期にかけての遺跡、貝塚である萩ノ岡に向かった。
遺跡の存在した丘は現在、誉田別尊(ホムタワケノミコト:応神天皇)を祀る井田八幡神社が鎮座しており、地区の信仰の場ともなっている。井田八幡はもと、八和田八幡といったが、明治3年(1870)に改称されている。
大隅半島から国分を北進し、霧島神宮へと向かった。
欽明天皇年間(539-71)僧慶胤(けいいん)によって高千穂峰の山頂に創建された霧島神宮は、高千穂峰に降臨した天饒石国鐃石天津彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト)を祭神として祀っている。その後、天暦年間(947-57)性空上人が、高千穂河原に移したが、噴火によって焼失し、文明十六年(1484)に至って、島津忠昌によって現在地に再建された。
現在の社殿は、正徳五年(1715)島津吉貴が寄進したものである。また、明治7年(1874)官幣大社に列せられるのを機に、霧島神社から霧島神宮に改められた。
(四方竹:四角い竹)
更に高所へと上がっていく。
高縄半島の突端である大角鼻は、大宝律令後に大角(だいかく(はら):法螺貝:ほらがい)と、烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)の場が設けられたことに始まるという。そして戦国時代になると、村上氏来島城を守るための番所が設けられた。また、隣接するところには天満鼻見張台、大角ノ砦があり、来島海峡での守りの拠点でもあった。海岸の岩礁には、柱穴の跡が残り、舟隠し場跡や丘陵上には防塁跡がある。更に付近の海岸には、縄文時代前期から晩期にかけての遺跡「水崎遺跡」が存在する。
鹿児島県湧水町の国見岳(標高648m)より発し、霧島高原の渓流地帯を流れ、国分平野を経て錦江湾に注ぐ全長42.5kmの川である。名の由来でもある、天孫降臨の伝説がある地故に、何かしら神聖に感じるのであった。
朝倉は古墳の村というほど、多くの古墳が存在した。この野々瀬古墳群も、終戦直後に112基が確認されているが、食糧政策により開墾が行われ、40基にまで数を減らした。
1号墳(七間塚)はその中でも代表するもので、6世紀末7世紀前半に築かれた円墳であり、直径16m,高さ5m両袖式石室を持ち、内部奥行き10m,高さ2.2mを計る。 8号墳(五間塚・王塚)も1号墳に準ずる規模を持ち、耳環、切子玉、管玉、鉄鏃、刀子、鉄鎌等が出土している。また、付近は縄文時代から弥生時代の土器も散見しており、古代のこの地域の繁栄を見て取ることができる。
(30号墳)(31号墳)
(関連記事:樹之本古墳 根上り松古墳)
(愛媛県今治市近見町 1990年9月14日踏査)
相の谷古墳は、標高244mの近見山と来島海峡の間に位置する標高約60mの丘陵地、通称「芋桶山」に存在する。その規模と検出された年代から、学術的には乎致命(おちのみこと:越智河野氏祖)の墳墓と推定されているが、伝承としては市内馬越町の鯨山古墳を乎致命の墳墓と伝えている。何れにせよ、規模の大きい古墳であるため、この地方の有力者の墓であることは間違いない。
1号墳は前方後円墳で、4世紀に築かれた全長82m,高さ10.5mの竪穴石室と礫床(小石を敷いた玄室)、二段築成からなる古墳であり、銅鏡、鉄剣、刀子、鉄斧等が出土し、外部施設として葺石(ふきいし:土止め)と埴輪を有する。 2号墳も前方後円墳であり、4世紀末から5世紀初頭とみられる全長53m,高さ5mの礫床、埴輪を有する古墳である。また、後円部には「仁誉上人」と刻まれた石碑が建っている。丘陵南西側は土取りにより崖となっているが、付近は深い雑木林に覆われており、一見では状態を確認し辛い。昭和43年(1967)の発掘調査以後の状態を維持しているようである。
(古墳から近見山を望む)
(愛媛県越智郡波方町樋口 1990年9月13日訪 町指定史跡)
この日は先ず大西町へ出向き、妙見山古墳等踏査の後、東隣の波方町に入り、この地に差し掛かった。
今治街道(波止浜街道)沿いのこの地(野間郡樋口村)には元々、土盛りの一里塚が存在したが、当時の松山藩が全ての一里塚を石標に改めることに決め、この樋口一里塚も寛保元年(1741)に「松山札辻より十里」と刻まれた石碑となった。その後、この碑は行方不明となったが、近隣他所で発見され、個人の所有となった後、町に寄贈され元の位置に戻された。
(関連記事:大角鼻)
(いまいずみ 鹿児島県指宿市岩本)
池田湖から再び錦江湾側へと出た。今和泉島津家があったこの地は、静かな佇まいをみせているが、今は「旬」なこともあって、ボランティアの方たちによる史跡案内が行われていた。このときは時間があまりなかったこともあり、今和泉の町割を歩き、今和泉島津家屋敷跡へと向かった。
宝暦四年(1754)に築かれた今和泉島津家屋敷跡(別邸)は現在、主に今和泉小学校となっており、敷地内には井戸と手水鉢が残されている。また、錦江湾側には石垣が残されており、松林(隼人松原)となっている。
(手水鉢 市指定文化財)
今和泉島津家は、島津一門家として延享元年(1744)に島津宗家吉貴の子忠郷をもって今和泉島津家を起こした。そして最盛期には、周辺の池田、岩本、串良、小牧、新西方、利永で一万五百九十三石を領していた。その後、天保六年(1835)今和泉島津忠剛のとき、一子(かつこ:後の篤姫)が生まれ、島津宗家への養女を経て徳川家に嫁ぎ、その後の徳川家に影響を及ぼした。
この後は桜島に向かった。
この日は今治港から伊予大島へ高速艇で渡り、先ず吉海町役場へ立ち寄った。続いて、標高約60mの八幡山にある紫雲庵墓地内に存在する藤崎古墳を訪れた。文献によっては、全長160mの前方後円墳と記載されているが、実際には直径約30mの円墳であり、片袖式横穴式石室(トップ写真)が露出する、6世紀末から7世紀初頃の古墳である。また、この古墳で出土した勾玉、金環、剣、馬具、刀子、鉄斧、須恵器、円筒埴輪片等は、町内の大亀八幡神社に保管されている。
(古墳全景)
(古墳からの眺め)
藤崎古墳から吉海町郷土文化センターに向かい、まちの歴史、民俗、郷土、美術資料を見学した。そして、教育長矢野氏よりお話をお聞きし、隣の宮窪町まで送っていただいた。宮窪町では、村上水軍資料室を見学し、水軍の能島、見近島での足跡を知った。また、現在は閉鎖中である宮窪町郷土資料館を特別に見学させていただき、そこには民俗資料や伯方島大橋の橋脚土台となった、見近島の水軍関係の出土遺物等が収蔵されていた。
本日訪れたこの二町は、将来来島大橋が完成し、西瀬戸自動車道が全通したことによって、リゾート開発等で島内の長年培われてきた伝統が、一瞬にして崩れてしまわないかと、少し不安に感じるのであった。