(東京都大田区田園調布)
放射状に区画された田園調布の西端には緑に包まれた公園がある。大正14年(1925)武蔵野の旧景を永く後世に残すため、田園調布会が潮見台と呼ばれる一角を広場としたことに始まる。昭和9年(1934)田園調布会から東京市に寄付され、整備の後、昭和19年(1944)宝来公園として開園した。
(愛知県宝飯郡音羽町長沢字日焼 1999年3月22日)
鎌倉街道(古東海道)沿いに鎮座する赤石(あかいわ)神社は、延暦年間(782-805)信濃国諏訪大明神を勧請したのが始まりという。また、永仁年間(1293-8)讃岐国から移った番場太郎致由がこの地を領して村内に登屋ヶ根城を築いた際、鎮護の神として崇敬したという。境内には寛文七年(1667)以降に始まった農村舞台の建物が残されている。
(東京都大田区田園調布)
多摩川を見下ろす高台には多くの古墳がある。いわゆる国分寺崖線上に群集する荏原台古墳群の支群を成すもので、13基存在する。昭和28年(1953)に開園した多摩川台公園には10基が現存し、内8基は多摩川台古墳群として、昭和32年、33年に発掘調査、昭和62年から平成3年にかけて確認調査が行われた。最初に円墳の2号墳が6世紀前半に築かれ、その2号墳を前方部として利用した前方後円墳の1号墳が6世紀後半に築かれた。3~8号墳は直径13mから19mの円墳で、それぞれ後期古墳である。8号墳を再現したものが、園内の古墳展示室で見ることができる。公園の北端には全長97m,高さ11mの宝莱山(ほうらいさん)古墳があり、昭和9年(1934)住宅造成に際し後円部が削られ、粘土郭と副葬品が出土し、それらから4世紀前半と推定される。公園南東には亀甲山(かめのこやま)古墳があり、全長107m,高さ10mの前方後円墳で、4世紀後半から5世紀前半と推定される。公園南側の浅間神社古墳も前方後円墳であり、後円部に浅間神社が建ち、前方部は東急東横線により削られているが、推定全長は60mで築造は6世紀前半とみられる。
多摩川台公園
国指定史跡 亀甲山古墳
切通を渡る
園内の古墳展示室
8号墳
県指定史跡 宝莱山古墳
(愛知県宝飯郡一宮町篠田字弘法野 1999年3月22日)
篠田の集落の南方には、田圃の水を集め佐奈川水系土々川(どどがわ)に合流する延長400m程度の小さな川がある。「いしゃどのがわ」と呼ばれ、現在は一部が暗渠化され、大半はコンクリート被覆されて情緒のない水路になっているが、戦前の土地宝典(地籍図)を見ると、歪な形の田畑に沿う流れであることが分かる。
(東京都品川区中延)
武蔵小山の南方に位置する中延(なかのぶ)は、品川区の下町の一つであり、小さな商店街が複数存在する。武蔵小山や戸越銀座のような賑やかさはないが、親しみの感じる雰囲気が漂っている。交通は東急大井町線、池上線、都営浅草線が通り、比較的便利である。
(愛知県蒲郡市大塚町広畑 1999年3月14日)
文明二年(1470)御堂山丹野城主萩原芳信は、牧野氏との間で起きた御堂山合戦の際、芳信の臣下に謀反され、隣村赤根の地で討死した。芳信の子に男子二人(四歳と二歳)と女子一人がいたが、男子二人は赤根村の今泉家に匿われ、長男は後に養子となって分家したという。女子の方は殺されなかったものの、この地で自害したという。故にこの地を姫塚と呼ぶ。
(中原街道 碑文谷道 東京都品川区小山)
四年振りにこの地を訪れる。「ムサコ」と言えばこの地の略称であったが、今は武蔵小杉に奪われてしまっている。然しながら、商業はこの地の方が優勢に感じた。
パルムG
目黒線地上線跡
(関連記事:武蔵小山平成二十四年 中原街道 林試の森)
(東京都中央区銀座)
昭和4年(1929)当時出版社であった改造社書店の新しいオフィスビルとして昭和通りに築造された、RC造4階地下1階塔屋付の建物である。昭和30年(1955)旧改造社解散後はテナントビルとなり、奥行きの広い北東部分が改造社書店(販売)に、奥行きの狭い南西側部分は飲食店として改装され、現在のような左右非対称の外観となった。
(名古屋市中区新栄 1999年2月28日)
都会の一角にこんもりとした場所がある。5世紀後半に築造された、全長70m,高さ6mの前方後円墳であり、墳丘上には和銅五年(712)創建とされる菊理媛神(くくりひめのかみ)を祀る白山神社が鎮座する。江戸時代末期の書物「金鱗九十九之塵(こんりんつくものちり)」には、「しかるに此のとき降り続く雨中に、この山の東北の方欠け崩れたり。そが所をみれば、土中に大きな瓶のいくつも見えたり。中に太刀、長刀あるいは鎧の鉄物ようのものいくらとなく出て、髑髏とおぼしき物も若干ありて、則此由公聞所に達しける処に、寺社方併町方の官御立会見分あり。然して後、新たにしてこれをかめにおさめ、前のごとく土中に埋めしとかや」とあり、内部が発掘されている可能性がある。外部施設として土師質埴輪があり、「尾張名細図」には周濠が描かれている。また、旧字に「砂子塚」があり、白山神社古墳の旧称と推定でき、かつては西側に西塚、狐塚があったという。
(青山通り大山道 東京都港区赤坂・青山)
最近は通り過ぎるばかりであったこの辺り。気が付くと絶え間なく変化がみられるカラータウンである。かつては赤坂青山町という行政地名であった。
青山学院前
六本木通り
赤坂 東京ミッドタウン・檜町公園
乃木坂
南青山
青山通り
赤坂見附
赤坂新坂
赤坂稲荷坂
赤坂一ツ木通り
赤坂
(関連記事:赤坂平成二十一年 南青山平成二十三年 東京ミッドタウン平成二十三年 赤坂見附平成二十三年 青山平成二十五年)
御津川沿いの蜜柑畑に白鳳時代とされる寺院の跡がある。平成3年から度々この地を踏査し、飛鳥時代後期以降の布目瓦や須恵器、土師器、灰釉陶器、中世陶器の他、埴輪の突帯と推定する破片を採集した。付近にはかつて古墳があったのかもしれない。寺跡である蜜柑畑の片隅には自然石の墓碑があり、墓表だけが削られていて、「寂光院真誉道悦大法居士山伏塚」と刻まれいる。この墓碑には年号が見受けられないが、文明十一年(1479)隣村広石村新宮山に開山した大運寺(後の御津山大恩寺)の二世住持以降は全て号に「誉」が付いており、関連性が伺える。また、苗畑には露出部分が72cmの墓石状のものがあり、その前には直径17cm,高さ10.5cmの五輪塔の塔身のようなものが置かれていた。その塔身とみられる石の、下の地輪に差し込む穴と、上の笠石を差し込む軸がない。また、梵字等もみられない点を考慮すると、意外と古い時期の可能性もある。平安時代には堂の落成や仏像開眼時に供養のため造立された例もあるので、その一部なのかもしれない。
(愛知県豊川市千両町下西の谷 1999年2月13日)
南千両圃場整備事業によって付近は荒れ地のように化していた。この付近には、古代から中世にかけての人々の営みがあり、須恵器や土師器、中世陶器等が出土している。
(東京都中央区晴海・月島)
晴海、月島は明治25年(1892)から開始された東京湾の浚渫(しゅんせつ)による土砂によって埋め立てられた地である。豊洲と同様、近年の急激な人口増加により、高層集合住宅が多く建造された。また、平成13年にはオフィス、商業、住宅複合施設である晴海アイランドトリトンスクエアが開業したが、混雑するららぽーと豊洲と比較すると、やや閑散とした印象を受ける。隅田川には築地とを結ぶ勝鬨(かちどき)橋が架かり、昭和15年(1940)竣工、長さ246mの航路部跳開橋である。
月島第三小学校
トリトンスクエアと朝潮運河黎明橋の歩く歩道
(関連記事:旧東京都港湾局晴海線晴海橋梁 佃水門)