flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

三河国分寺跡発掘調査

2008-08-31 00:00:51 | ほとけのいおり

(本郷遺跡 愛知県豊川市八幡町本郷 国指定史跡 1982年8月29日の日記から)
 曹洞宗国府山国分寺の南側にある民家の改築に伴う発掘調査が行われた。この地点は、旧国分寺中門跡付近とみられているが、それに関する遺構は検出されず、弥生時代の住居跡、溝状遺構、土器棺、古墳時代のかまど状遺構、奈良時代の瓦溜め、中世以降の住居遺構等が検出された。
(トップ写真は、初日8/9の表土除去の光景)

    (弥生後期 第1・2号住居遺構)
(弥生後期 溝状遺構)


(関連記事:三河国分寺塔跡発掘調査

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網掛川 龍門滝

2008-08-30 00:00:32 | 水のほとり

(鹿児島県姶良郡加治木町反土 日本の滝百選98番)
 鹿児島市内の宿泊先を後にし、先ず加治木町網掛川に存在する龍門滝に向かった。高さ46m,幅43mあり、中国淅江省の龍門滝を彷彿とさせることから、この名が付いたという。江戸中期の文人橘南渓は、各地を訪れて書いた紀行文『諸国奇談西遊記』にこの龍門滝を訪れたことを紹介し、絶賛している。
  
 また、滝の近くには、加治木島津家六代久微(ひさなる)によって造立された石像の滝観音(町指定文化財)がある。

 この後は、焼酎工場を見学し、島津氏別邸跡の仙巖園に向かった。

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尾張国府跡第6次発掘調査A地点

2008-08-29 21:00:53 | いにしえの人びと

(愛知県稲沢市国府宮一丁目 1982年8月28日の日記から)
 国府宮神社北東隣(旧字宗形)において発掘調査が行われていた。この地点は昭和52年に国府跡として初めて発掘調査された地点であり、56年度に引き続き3回目である。7月1日から行われている調査によって、古墳時代から鎌倉時代までの遺物及び遺構が検出されている。
 遺構としては、土拡、溝、礎石等が検出され、遺物としては、須恵器、土師器、灰釉陶器、緑釉陶器、中世陶器の他、中国景徳鎮陶磁器片や硯(平安前期)が出土している。また、銅製印鑑や、白色陶質土器(細頸瓶)に入った乾元大宝、鍛治遺構と思われる坩堝(るつぼ)、炭、鞴羽口(ふいごはぐち:溶鉱炉送風装置)、鉄滓(てっさい:金屑)も出土したということである。
    

(関連記事:尾張大国霊神社 尾張国分寺跡 美濃路稲葉宿 岐阜街道下津(南) 六角堂四ツ家追分 北市場

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お知らせ

2008-08-29 00:00:57 | お知らせ

昨日午後から発生しております雷雨により、当方の通信機器が損傷を受けました。

しばらく携帯端末での更新、操作となりますので、コメントの遅れ等が発生しますことをご了承ください。

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旧鹿児島市公会堂

2008-08-28 00:00:18 | STRUCTURE-構造物残影-
(鹿児島市中央公民館 鹿児島市山下町 国登録有形文化財)
 大正13年(1924)摂政宮(後の昭和天皇)ご成婚記念事業として鹿児島市が計画し、昭和2年(1927)に竣工した、RC造、地上3階、地下1階、延床面積3,480㎡の随所にイスラム建築様式のデザインを施す建物である。
 昭和20年(1945)空襲により内部を焼失したが、その後修復され、市中央公民館となって現在に至っている。
 
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尾張大国霊神社

2008-08-27 00:00:38 | かみのやしろ
(国府宮神社 愛知県稲沢市国府宮 旧尾張国総社 旧国幣小社)
 祭神は尾張大国霊神(おわりおおくにたまのかみ)を祀り、平安時代には尾張国総社に指定された。旧暦一月十三日には、儺追神事(はだか祭り)が行われる。古くからの建造物として、室町初期建造の楼門と、江戸初期建造の拝殿(共に国指定重要文化財)がある。
(楼門)
(拝殿)


(関連記事:美濃路稲葉宿
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桜城

2008-08-26 00:00:19 | 孝霊天皇流族関係記事

(衣城 挙母城 挙母陣屋 佐久良城 愛知県豊田市挙母町・桜町・元城町 市指定史跡)
 私が初めて訪れた昭和57年以来、櫓跡の石垣は公園内に変わらず佇むが、周囲は著しく変化を遂げている。平成18年の豊田信用金庫ビル建設の際、二の丸遺構(堀、石垣)の一部が検出されたが、調査後に取り壊されている。豊田市は観光に力を注ぐ必要がないため、このような史跡を活かそうとする意志は薄い。名誉市民である故本多静雄氏の寄贈による豊田市民芸館等が旧市内における数少ない観光地であろうか。
 
 桜城は、慶長十九年(1614)金谷城主三宅康貞が築き、暫く在城していたが、寛文四年(1664)田原城へ移封した。その後、天領を経て、天和元年(1681)陸奥石川より本多忠利が入り、忠次、忠央(ただなか)と続き、寛延二年(1749)上野安中より内藤政苗(まさみつ)が入って城を改修している。然し、矢作川の洪水に見舞われることが多かったため、天明二(1782)年、二代内藤学文(さとふみ)のとき、西側の高台童子山の七州城へ移転している。

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西郷隆盛像

2008-08-25 00:00:29 | いにしえの人びと

(鹿児島市山下町)
 この地に大きく歴史を刻んだ一人、西郷隆盛(文政十年(1828)ー明治10年(1877))の西郷五十年祭を記念して、昭和12年(1937)に彫刻家安藤照氏が製作したものである。銅像は陸軍大将の制服を纏い、高さは8mを有する。
 この日は「六月燈」(鹿児島夏祭り)であったため、夜は時折上がる打ち上げ花火が像を照らしていた。

 
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美濃路 稲葉宿

2008-08-24 00:00:33 | 街道・宿場町
(愛知県稲沢市)
 稲沢の地名は、明治8年(1875)に隣接しあう稲葉村と小沢村が合併し、一字ずつ取ったことに由来する。その両村に跨り、那古野から中山道垂井に至る美濃路の宿が存在した。 往時は本陣が小沢村、脇本陣は稲葉村に存在し、旅籠は八軒であったという。また、明治2年(1869)には、この地で農民一揆「稲葉騒動」が起きている。
         

(関連記事:四ッ家追分 清洲宿 萩原宿
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七州城

2008-08-23 00:00:04 | 城郭・城下町

(挙母城 愛知県豊田市小坂本町 市指定史跡)
 矢作川の洪水に度々見舞われた東方低地の桜城に代わって、高台のこの地に内藤学文(さとふみ:政養(まさもち))によって、天明二年(1782)に城が築かれた。七州(しちしゅう)の名の由来は、城の中央に存在した築山「七州台」からの眺望が、三河から尾張、美濃、伊勢、近江、遠江、信濃を望めるようだというところから名付けられた。然し、城は未完成のまま廃藩を迎え、南西隅の昭和53年(1978)に再現された二重櫓付近以外は、明確な遺構は残されていない。
      
 現在城跡は、主に豊田市美術館の敷地となっており、西側には旧寺部城書院又日亭(ゆうじつてい)が建っている。平成4年、城跡に建つ童子山小学校の移転解体が行われ、終了後に美術館建設が始まった。文化面では相通ずるものがあるものの、近世城跡に現代建築家デザインの美術館は果たしてどうだろうかという感は否めない。然し近年は、北側の豊田東高校の移転後の城跡整備構想や、城下町整備構想等、今まで工業都市として走ってきた豊田市の文化、観光に対しての今後の行動に注目したいところである。

(関連記事:七州城大手

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鹿児島の午後

2008-08-22 00:00:31 | 漂い紀行
 空港アクセスバス金生町バス停を降り市役所鶴丸城西郷隆盛像照国神社薩摩義士碑私学校跡旧鹿児島県庁県政記念館、みなと大通り公園、ドルフィンポート篤姫館の順に散策し、シティービューで石橋記念公園へ向かった。その後、市電鴨池電停を降り、鴨池球場横を通って、一旦所用で宿泊先に入った。そして改めて外出し、鹿児島市中央公民館、中央公園、納屋町、そして南九州一の繁華街という天文館の順に巡った。
    (宿泊先の浴場から) (宿泊先近くのD51714)(天文館)
 途中、浜町ではヘリコプターで離島から運ばれてきた妊婦の救急搬送場面や、鴨池球場での鹿児島実業高校の甲子園出場の瞬間、西郷隆盛像の横で上がる打ち上げ花火に遭遇した。
 明日は、姶良経由で指宿に向かう。
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名古屋城 清洲櫓

2008-08-21 00:00:55 | 城郭・城下町
(御深井丸西北隅櫓 戌亥隅櫓 名古屋市中区 国指定重要文化財)
 慶長十一年(1611)いわゆる「清洲越し:名古屋移転」によって清洲城から移築された清洲櫓は、三層三階の規模を誇り、第二次世界大戦の難を逃れ現存している。
             

(関連記事:名古屋城外苑 名古屋城平成二十年
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本願寺 岐阜別院

2008-08-20 00:00:36 | ほとけのいおり

(浄土真宗本願寺派岐阜別院 岐阜市西野町)
  この日は、開始されたばかりの織田信長居館跡発掘調査から、この地に差し掛かった。
 
 天正年間に本願寺十一代顕如が美濃国に赴いた際に、この地の領主、一柳直高が信徒となり帰依した。そして、その直高の死後、直高の墓の傍に寺が建立された。これが岐阜別院の始まりという。
 
 昭和20年(1945)空襲の被害を受けたが、本門(宝暦六年(1756)建)、裏門(南門:江戸:県重文)、鐘楼(安永六年(1777)建)、経蔵(江戸)への被害は免れた。本門は総欅造りであり、唐獅子や獏等の彫刻が施されている。
(本門 県指定重要文化財)
(経蔵 市指定文化財)

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西田橋

2008-08-19 00:00:01 | 水のほとり
(石橋記念公園 鹿児島市浜町 県指定有形文化財)
 鹿児島市の代表河川である甲突川(こうつきがわ)に架かっていた石橋の西田橋は、かつて他の玉江橋、新上橋、高麗橋、武之橋と共に「五石橋」と呼ばれ親しまれていた。然し、平成5年の集中豪雨によって甲突川は氾濫し、1万2千戸を浸水させるほどの水害をもたらした。その際、新上橋と武之橋は流失し、他の三橋も被害を受けた。これを機に、河川改修と橋の保存に向けた移築復元が開始された。
   
 西田橋は、弘化三年(1846)に七千百二十七両をかけ、薩摩藩の城下町整備の一環として築造された。九州街道の道筋であり、また、鹿児島城に至る道として地域を代表する橋であった。三つの橋脚をアーチで結び、長さは約50m,城側のたもとには「御門」が設けられていた。
 
 移築復元は、西田橋の北東約2.5kmの稲荷川沿いに人工の川を造り行われた。長い年月で一部が改変されていたものを、架橋当時の状態に復原し、御門もあわせて再現された。そして、その歴史や技術を紹介する施設「石橋記念館」が併設され、平成12年に「石橋記念公園」として開園した。
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名古屋城 平成二十年

2008-08-18 00:00:14 | 城郭・城下町

(名古屋市中区 国指定特別史跡 旧国宝 重要文化財 日本100名城44番)
 凡そ9年振りに城内を訪れた。このときは、「さつき展」が催されており、いつもと違った彩りをみせていた。そして近年は、「二の丸御殿再建」の機運がようやく高まり始め、長らく礎石しかないその場所も、変化の兆しがする思いがした。
    (重文 西南隅櫓)  (旧天守礎石)(出雲式古墳石棺)(本丸御殿跡)        (重文 東南隅櫓)(二の丸北暗渠(水路)跡)(二の丸東庭園)

(関連記事:名古屋城外苑 清洲櫓 徳川園 那古野

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