(本郷遺跡 愛知県豊川市八幡町本郷 国指定史跡 1982年8月29日の日記から)
曹洞宗国府山国分寺の南側にある民家の改築に伴う発掘調査が行われた。この地点は、旧国分寺中門跡付近とみられているが、それに関する遺構は検出されず、弥生時代の住居跡、溝状遺構、土器棺、古墳時代のかまど状遺構、奈良時代の瓦溜め、中世以降の住居遺構等が検出された。
(トップ写真は、初日8/9の表土除去の光景)
(弥生後期 第1・2号住居遺構)
(弥生後期 溝状遺構)
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(愛知県稲沢市国府宮一丁目 1982年8月28日の日記から)
国府宮神社北東隣(旧字宗形)において発掘調査が行われていた。この地点は昭和52年に国府跡として初めて発掘調査された地点であり、56年度に引き続き3回目である。7月1日から行われている調査によって、古墳時代から鎌倉時代までの遺物及び遺構が検出されている。
遺構としては、土拡、溝、礎石等が検出され、遺物としては、須恵器、土師器、灰釉陶器、緑釉陶器、中世陶器の他、中国景徳鎮陶磁器片や硯(平安前期)が出土している。また、銅製印鑑や、白色陶質土器(細頸瓶)に入った乾元大宝、鍛治遺構と思われる坩堝(るつぼ)、炭、鞴羽口(ふいごはぐち:溶鉱炉送風装置)、鉄滓(てっさい:金屑)も出土したということである。
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祭神は尾張大国霊神(おわりおおくにたまのかみ)を祀り、平安時代には尾張国総社に指定された。旧暦一月十三日には、儺追神事(はだか祭り)が行われる。古くからの建造物として、室町初期建造の楼門と、江戸初期建造の拝殿(共に国指定重要文化財)がある。
(楼門)
(拝殿)
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(衣城 挙母城 挙母陣屋 佐久良城 愛知県豊田市挙母町・桜町・元城町 市指定史跡)
私が初めて訪れた昭和57年以来、櫓跡の石垣は公園内に変わらず佇むが、周囲は著しく変化を遂げている。平成18年の豊田信用金庫ビル建設の際、二の丸遺構(堀、石垣)の一部が検出されたが、調査後に取り壊されている。豊田市は観光に力を注ぐ必要がないため、このような史跡を活かそうとする意志は薄い。名誉市民である故本多静雄氏の寄贈による豊田市民芸館等が旧市内における数少ない観光地であろうか。
桜城は、慶長十九年(1614)金谷城主三宅康貞が築き、暫く在城していたが、寛文四年(1664)田原城へ移封した。その後、天領を経て、天和元年(1681)陸奥石川より本多忠利が入り、忠次、忠央(ただなか)と続き、寛延二年(1749)上野安中より内藤政苗(まさみつ)が入って城を改修している。然し、矢作川の洪水に見舞われることが多かったため、天明二(1782)年、二代内藤学文(さとふみ)のとき、西側の高台童子山の七州城へ移転している。
(挙母城 愛知県豊田市小坂本町 市指定史跡)
矢作川の洪水に度々見舞われた東方低地の桜城に代わって、高台のこの地に内藤学文(さとふみ:政養(まさもち))によって、天明二年(1782)に城が築かれた。七州(しちしゅう)の名の由来は、城の中央に存在した築山「七州台」からの眺望が、三河から尾張、美濃、伊勢、近江、遠江、信濃を望めるようだというところから名付けられた。然し、城は未完成のまま廃藩を迎え、南西隅の昭和53年(1978)に再現された二重櫓付近以外は、明確な遺構は残されていない。
現在城跡は、主に豊田市美術館の敷地となっており、西側には旧寺部城書院又日亭(ゆうじつてい)が建っている。平成4年、城跡に建つ童子山小学校の移転解体が行われ、終了後に美術館建設が始まった。文化面では相通ずるものがあるものの、近世城跡に現代建築家デザインの美術館は果たしてどうだろうかという感は否めない。然し近年は、北側の豊田東高校の移転後の城跡整備構想や、城下町整備構想等、今まで工業都市として走ってきた豊田市の文化、観光に対しての今後の行動に注目したいところである。
(関連記事:七州城大手)
(宿泊先の浴場から) (宿泊先近くのD51714)(天文館)
途中、浜町ではヘリコプターで離島から運ばれてきた妊婦の救急搬送場面や、鴨池球場での鹿児島実業高校の甲子園出場の瞬間、西郷隆盛像の横で上がる打ち上げ花火に遭遇した。
明日は、姶良経由で指宿に向かう。
(浄土真宗本願寺派岐阜別院 岐阜市西野町)
この日は、開始されたばかりの織田信長居館跡発掘調査から、この地に差し掛かった。
天正年間に本願寺十一代顕如が美濃国に赴いた際に、この地の領主、一柳直高が信徒となり帰依した。そして、その直高の死後、直高の墓の傍に寺が建立された。これが岐阜別院の始まりという。
昭和20年(1945)空襲の被害を受けたが、本門(宝暦六年(1756)建)、裏門(南門:江戸:県重文)、鐘楼(安永六年(1777)建)、経蔵(江戸)への被害は免れた。本門は総欅造りであり、唐獅子や獏等の彫刻が施されている。
(本門 県指定重要文化財)
(経蔵 市指定文化財)
鹿児島市の代表河川である甲突川(こうつきがわ)に架かっていた石橋の西田橋は、かつて他の玉江橋、新上橋、高麗橋、武之橋と共に「五石橋」と呼ばれ親しまれていた。然し、平成5年の集中豪雨によって甲突川は氾濫し、1万2千戸を浸水させるほどの水害をもたらした。その際、新上橋と武之橋は流失し、他の三橋も被害を受けた。これを機に、河川改修と橋の保存に向けた移築復元が開始された。
西田橋は、弘化三年(1846)に七千百二十七両をかけ、薩摩藩の城下町整備の一環として築造された。九州街道の道筋であり、また、鹿児島城に至る道として地域を代表する橋であった。三つの橋脚をアーチで結び、長さは約50m,城側のたもとには「御門」が設けられていた。
移築復元は、西田橋の北東約2.5kmの稲荷川沿いに人工の川を造り行われた。長い年月で一部が改変されていたものを、架橋当時の状態に復原し、御門もあわせて再現された。そして、その歴史や技術を紹介する施設「石橋記念館」が併設され、平成12年に「石橋記念公園」として開園した。