(長野県北佐久郡立科町 2003年6月29日の日記から)
行程: 茅野~山麓~ピラタス蓼科ロープウェイ~山頂・坪庭・山頂~山麓・温泉・蓼科高原美術館~蓼科湖~茅野
アバラ屋から直通列車で行くと、麓の街まで七時間要するこの地も、迂回して四回乗り換えることで三時間半に短縮されるのは、これ如何に。
レンゲツツジの平原の向こうに、八ヶ岳を望みながら上昇。
標高2240mの亜高山帯に広がる、坪庭と言われる溶岩台地自生植物は、時期的に彩りは少ないものの、キンロバイ、イワカガミ、など、新緑の木々の間に表情を覗かせていた。
麓の温泉に浸かり、付近にはユウスゲ、アカツメクサ、アヤメ、デイジーなどの花が咲いていた。
(画像はリバーサルフィルムをスキャン)
(関連記事:白樺湖)
国道19号線金山新橋交差点にある道標。「東 右 なごや 木曽海道 南 左 さや海道 津しま道 西 右 宮海道 左 なごや道」と刻まれている。
この道標から西は佐屋街道を経て津島、南は宮宿東海道、北は名古屋街道を経て美濃路、木曽街道に至る訳である。
この日は名古屋街道を北に向かった。
(愛知県愛知郡日進町岩崎 1990年6月27日)
名古屋のベッドタウンとして急速な開発が進み、最近は工場、学校も進出している日進町を訪ねた。
室町末期、勝幡城主織田信秀が築城し、小牧長久手の戦いでは重要な戦略拠点であった岩崎城。現在そこに建つ岩崎城歴史記念館を見学し、原始からの日進、岩崎城の歴史の流れを知った。そして、在城当時には無かった天守(城閣)が昭和62年(1987)に建設され、現在の“日進城”という雰囲気を呈していた。
堀、土塁、土橋、櫓跡、井戸跡と、城跡発掘調査の際発見された古墳などを踏査し、続いて三好町へと向かった。
(地域関連記事:五色園 名古屋市交通局日進工場)
許されない行為だが、何故このような行動を駆り立てる結果を招いたか、その原点に目を向けるべきである。
このように至った本人の特性、持って生まれた性格もあるが、親の育て方、閉鎖的で差別的な周辺環境の影響も大きかったと思われる。
事件に対する批判は当然だが、今まで向けられてきた容疑者周囲の冷たい文言は、取り返しのつかない悪夢を増長させる一端に繋がっているように思う…。
周囲が本人を育てず、憎悪非道の念を育てさせた訳である。
そしてまた、同様な原因の新たな殺人事件が報道されている…。
雨の本日、それぞれの主催者側から招待を戴き、名古屋ボストン美術館「ボストン浮世絵展」と栄三越「マリア・テレジアとマリー・アントワネット展」を観覧した。
実は私、金山のボストン美術館は初めてであり、オープンギャラリーの写真家「エドワード・ウェストン展」も合わせて静観した。
鎖国の中で独自の発達をみせた浮世絵は、海外画壇にも大きな影響を与えたことなど、一見漫画的なタッチの中に、様々な技術を織り込み後世に伝わっていった流れを改めて知ることができた。
写真展は、アメリカ戦前・戦中・終戦直後にかけての、見慣れたものを精緻に捉えた現実と非現実を表現した、哀愁をも漂わすモノトーンの写真芸術であった。
マリーアントワネット展は、母マリアテレジア、娘アントワネットの物語を主体に、18世紀のオーストリアとフランスの王家の華美な生活と、豪華な装飾調度品、そして時代に翻弄された当時の王家の歴史を垣間見ることができた。
この日は金山から旧名古屋街道(美濃路)を歩き、橘、大須、栄、伏見、那古野の四間道や円頓寺商店街にかけて漫ろ歩いた。
それらはまた別記にて。 NHK前で番組打ち合わせ?
厳しい女検めのある、東海道新居関所を避けるルートの姫街道の中で最も難所である本坂峠越(三河・遠江国境、標高326m)の西の麓の宿である。
東西五町五十間(636m)あったといわれ、本陣が置かれていた。(トップの写真)
江戸末期になって、脇本陣(石垣のある写真)や旅籠が建つようになり、ようやく宿場らしくなったという。
姫街道が後に国道となった際、新道を町の南側へ造ったため、旧道は当時の幅、雰囲気を残している。
また町の西方の丘には、奥山氏が居城した「嵩山城」(月ヶ谷城、市場城、最後の写真)、南方の小高い山には「左京殿城」が存在した。





マンガ風のキャラクターが使われることが多く、人間だけでなく動物やロボットなどを選択できたり、髪型や服装、アクセサリーなどを選んでオリジナルのキャラクターを作成できるようになっている。
これをアバターと呼ぶ。
アニメーションや3次元グラフィックスを使用したシステムも登場している。
一般HPからSNSへ進化していく過程のHPといったところか。
私も一昨年無料HPが閉鎖された折、同じ系列の後継HPとして、このアバターHPに加入した。
が、暫く馴染めない時期が続いた。
それは私のHPの趣旨との差異を感じることと、やや幼いコミュニティのような感もあるためだ。
ここで登場するキャラクターに着せ替えをするためのファッションなど無料アイテムもあるが、自分に合ったものを探そうとすると、有料アイテムを購入することになる。
これがHP管理会社の維持収入ということになるが、やはり限られたユーザしか参加しないため、やや縮小傾向にある。
http://kourei.hp.gaiax.com/
は私のアバターHPである。
ブログは社会人や経営者、自営業者が多いのに比べ、アバターは学生、女性が多い。
ブログよりは気楽さがあるため、コメントもしやすいかもしれない。
その後玉川村長楽、石巻村長楽を経て、昭和30年に豊橋市に合併した。
長楽の地名は無くなったが、今でも通称で長楽と呼ばれている。
この辺りは私が子供の頃から訪れているところである。
長楽は姫街道(本坂通)沿いの村で、一里塚も存在した。

文政三年(1820)に建てられた常夜灯の場所からは、東海道吉田宿 と姫街道嵩山(すせ)宿 を結んだ、嵩山街道(山手道)が分かれていた。
また鎌倉街道も付近を通っていたといわれ、交通の要所でもあったようである。
地区の東には、長楽のヒノキ(地蔵檜)があり、樹齢300年の姿を見せている。
木の内部は落雷により空洞となっており、焼け跡も残っている。
ヒノキの辺りは、豊川水系神田川に面した古代人の遺跡で、縄文時代晩期からの営みの跡がみられる。
(最後の写真は1994年9月30日、台風26号通過後の被害状況)




私もその少年と同じ年頃であった頃、そのような考えを持ったことがあった。
然し、家族の命を奪うことは、考えはしなかったが…。
それは、おかれている立場や環境の違いかもしれない。
何れにせよ保護者の責任は大である。
私は子供の頃、親の機嫌を見て育っていたように思う。
故に“いい子”を演じていたのだとも思う。
今となっては、私の身内は誰もいなくなり、まるで自然の摂理のようにリセットされた、我が家が今ある…。
(滋賀県近江八幡市 2003年6月22日の日記から)
京街道(朝鮮人街道)沿いのこの町は、至るところいわゆる八幡商人時代の名残を思わせる古い町並みを残している。
元来、豊臣秀次が築いた城下町として形成されたこの地も、間もなくして廃城となり、商家だけが数多く残された。
また、水郷“八幡堀”には、琵琶湖から通じる水流があり、往時を偲ぶことができる。
そして堀に隣接するところには、地名の由来となった日牟禮八幡という社が鎮座し、この町を永く見つめているのである。





(小京都関連記事:信濃松代 筑摩松本 伊那飯田 加賀金沢 飛騨高山 飛騨古川 郡上八幡 尾張犬山 三河西尾 伊賀上野 近江長浜)
(岐阜県各務原市)
踏査日程: 坊の塚古墳(1990/6/17・2005/5/25)
衣裳塚古墳、二ノ宮神社古墳(1990/6/17)
金縄塚古墳(2005/10/31)
原始・古代から栄えていた各務原の古墳のうち、鵜沼古墳群を訪ねた。
坊の塚古墳は、鵜沼羽場町の丘陵上に位置し、前方後円墳で5世紀中葉に築造。
全長120m、高さ10mで竪穴式石室、墳丘二段築成であり、外部施設には周濠、埴輪を有している。規模としては、岐阜県では大垣市の昼飯大塚古墳(全長153m)に次ぐ大きさである。
衣裳塚古墳は、坊の塚の北東300m、空安寺の隣りにあり、前方後円墳の前方部が欠損したものという説もある。
現存直径52m、高さ7mで、坊の塚よりやや古い5世紀前葉と推定される。
二ノ宮神社古墳は、鵜沼西町の二ノ宮神社土台となっていて、古墳時代後期の円墳であり、奥行き6mの横穴式石室が露出している。(トップ写真)
金縄塚古墳は、鵜沼東町、桑原野山西公園内にあり、5世紀に築かれた直径38mの円墳である。
中央部が削り取られ、変形している。
このほか、かがみ野付近には、那加古墳群の柄山古墳、琴塚古墳等がある。
(岐阜県各務原市 1990年6月17日)
木曽川・中山道・高山線・名鉄線・各務原飛行場などが東西に延びている。故に市域も東西に長い各務原を訪れた。先ず歴史民俗資料館を見学。最初予想したより、原始・古代が発達していて出土品も豊富であった。やはり濃尾平野の付け根、木曽川に面した南向きの斜面、気候も比較的温暖で食物も豊富であったからであろう。資料館では宮崎憲二氏のご説明を聞き、各務原の資料を入手した。
踏査散策順は、前方後円墳の坊の塚古墳・最大級の円墳衣裳塚古墳・一輪山古墳・空安寺・墳丘上に社殿が建てられ石室が開口している二ノ宮神社古墳、中山道五十二番目鵜沼宿本陣跡であった。古代から東山道も通い、また名古屋へと続く稲置街道も分岐する、要所である鵜沼の地。然し中山道の鵜沼宿ができたのは、慶安四年(1651)とやや新しい。ここには織田信長の家臣、後に脇本陣を務めた坂井家があり、その子孫が著した資料を手にし、坂井家に関することをお聞きすることができた。また松尾芭蕉が三度、この脇本陣坂井家に滞在したそうである。
その際に詠んだ句が、脇本陣跡に句碑に残り、
「汲溜の 水泡立つや 蝉の声」
「ふぐ汁も 喰へば喰せよ 菊の酒」 とある。
(地域関連記事:太田宿 加納宿 鵜沼宿平成十九年 那加平成十七年 手力那加 かがみ野の古墳 新加納 鵜沼連絡線 龍慶山少林寺 炉畑遺跡 桜井家住宅 新境川百十郎桜平成十八年 二十年 那加の春 平成二十六年 柄山古墳)