flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

持舟城

2008-07-31 00:00:36 | 城郭・城下町
(もちぶねじょう 静岡市駿河区用宗城山町)
 東海道線用宗(もちむね)駅を降り、先ず用宗公民館に立ち寄る。ここで地区の歴史等を尋ね、いただいた資料を基に持舟城跡へ向かった。公民館の敷地の一角には、「城山烈士供養塔」があり、天正七年(1579)徳川勢に攻められ討死した、向井正重以下三十余名の霊を弔うために建てられたものである。
  
 東海道線を越えると、城山の麓に建つ鎮守、浅間神社があり、神社の横には、「城山観音道」の碑と、「城山農道完成之碑」がある。その道を上がっていくと、民家が建つ右手の尾根が「東出郭」跡である。そして、地中に新幹線のトンネルがある「汐見坂」を上がりきると、標高凡そ80mの主郭跡に辿り着く。
        (東出郭跡)
  
 主郭跡からは用宗海岸や、空気が澄んでいれば富士山も望めるという。その主郭跡には、長崎奉行職であった向井正重裔正奥が、寛文五年(1665)祖先の霊を弔うため、石造のマリア観音像を祀る観音堂を建立した。観音堂は近年まで存在したが現在は取り壊され、観音像は麓の大雲寺に移されている。
 (用宗海岸方面)
(富士山及び駿府方面)
(大雲寺)
 主郭と次郭の間には堀切があり、そこには安全のためフェンスで囲われた井戸跡がある。
   (次郭跡)
 持舟城は当初、今川氏臣関口近長が居城していたが、同じく今川氏臣一宮元実のとき武田勢に攻められ元実は討死した。代わって武田氏臣三浦義鏡、向井正重が持舟城を守った。然し、天正七年徳川勢が攻め入り正重らは討死、そして翌年、武田勝頼は城を修復し朝比奈氏秀に守らせたが、天正十年(1582)織田徳川勢によって再び攻撃を受け落城した。
 用宗の語源は、持舟城当時、北畠氏臣及び愛州氏臣であった向井水軍(正重ら)が朝比奈氏の招きによってこの城に移ったとき、城下の海に舟を配備したところからとされ、「もちふね」が「もちぶね」「もちむね」に転化していったものという。
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鹿児島城

2008-07-30 00:00:37 | 城郭・城下町
(鶴丸城 鹿児島市城山町 県指定史跡 日本100名城97番)
 市役所から城山山麓の鶴丸城跡へと向かった。往時の面影を残す石垣や、鯉が泳ぎ蓮の花が咲く堀の一部が残るが、旧城内には城の建物等はなく、本丸跡は県歴史資料センター黎明館、二の丸跡は県図書館、博物館、美術館となっている。
       
  慶長六年(1601)島津家久(忠恒)によって築城された。七十七万石ながら天守の持たない城で、廃藩まで島津氏が代々居城した。廃藩後、本丸建物は熊本鎮台(陸軍施設)第二分営となったが、明治6年(1873)火災で焼失し、二の丸建物も明治10年(1877)の西南戦争で焼失している。

(関連記事:私学校跡
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川原寺跡

2008-07-29 00:00:40 | ほとけのいおり
(弘福寺 奈良県高市郡明日香村 国指定史跡)
 橘寺からすぐ北側の川原寺跡へと向かう。飛鳥時代に創建された飛鳥四大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)の一寺であり、第三十七代斉明天皇の川原宮の跡地を寺院にしたものとされている。建久二年(1191)に火災に遭い、その後再興するが、室町時代に落雷によって再び焼失し、三度再興する際には、中金堂跡に建つ現弘福寺のように規模が縮小していった。また、往時の伽藍は一塔ニ金堂の独特な形式で、「川原寺式伽藍配置」と呼ばれている。
     

 この後は、飛鳥寺に向かった。
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東大寺東側

2008-07-28 00:00:22 | ほとけのいおり

(華厳宗大本山東大寺 奈良市雑司町 国指定史跡)
 大仏殿から東に上がると、懐かしい光景が広がっていた。そして、国宝二月堂からは、日の入り間近な古都奈良を望むことができた。
(国宝 鐘楼・梵鐘)
            

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鹿児島市役所本館

2008-07-27 00:00:27 | STRUCTURE-構造物残影-
(鹿児島市山下町 国指定登録有形文化財)
 鹿児島では、先ず市役所に立ち寄り、市勢要覧等資料を提供していただいた。
また、市役所本館の建物は、昭和12年(1937)大蔵省営繕管財局工務部が設計したものであり、RC造、地上3階建、塔屋付一部3階、延床面積9,306㎡の施設である。

 次に鶴丸城跡へ向かった。

(関連記事:鹿児島市電
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二面石

2008-07-26 00:00:34 | 石のまもり
(奈良県高市郡明日香村橘)
 橘寺の境内には、「善悪二業一心所造」といわれる、高さ1m,幅85cm程の二面石がある。北面(右側)に善の形相を、南面(左側)に悪の形相を表しているとされる。また、笑いと怒り、男と女を表しているともいい、他の奇石と共に飛鳥時代のものであるという。背面が平坦を呈しており、江戸時代にここに運ばれたことから、それまでは周辺地に他の石と共に置かれていたか、古墳に関連するものという見方もある。
 
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東大寺 奈良の大仏

2008-07-25 03:00:14 | 大きな仏さま

(華厳宗大本山東大寺廬舎那仏 奈良市雑司町 世界文化遺産 国宝 国指定史跡)
 伏見城から久し振りの東大寺を訪れた。奈良市に初めて訪れたのは、小学校の修学旅行であったが、奈良の長い歴史故に、振り返って比較してみてもあまり変化が感じられなかった。ただ、以前よりアジア系観光客が増えているのを実感した。
 (国宝 金銅八角燈籠)
   
(重文 木造虚空蔵菩薩像 宝暦二年(1752)開眼)

(廣目天像 江戸時代)
  (増長天 持国天像頭部 江戸)
  東大寺は元々、天平五年(733)金鐘寺として創建したのが始まりとされ、天平十三年(741)には聖武天皇が国分寺建立の詔を発し、大和国分寺となった。そして、天平十五年(743)には大仏造立の詔が発せられれ、天平勝宝四年(752)開眼供養会が行われた。その後、天災や戦乱に巻き込まれ、斉衡二年(855)の地震による大仏破損、治承四年(1180)平重衡(たいらのしげひら)の兵火焼失、永禄十年(1567)松永久秀による兵火焼失、慶長十五年(1610)の大風による仮堂倒壊と仏頭落下等、災難に見舞われている。その都度補修、再建が行われ、現在の大仏殿は元禄四年(1691)に再建されたものであり、大仏は破損したものを修復し、当初よりやや小さくなったものの像高は約15mで、元禄五年(1692)改めて開眼供養されたものである。また、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が柱に開けられ、「招福の柱穴」として多くの人がくぐり抜けている。
 
(多聞天(毘沙門天)像 江戸時代)
 
(重文 如意輪観音菩薩像 元文三年(1738)開眼)

     (賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)  

 この後は、二月堂方面へと向かった。

(関連記事:転害門 薬師寺 元興寺 春日大社 法隆寺

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RODEN KAGOSHIMA

2008-07-24 00:00:25 | RODEN-哀愁のRailway-

(鹿児島市交通局市内電車)
 空港からの移動が約二時間遅れたため、空港アクセスバス終点の鹿児島中央駅まで向かわず、城山トンネルをくぐった最初の停留所「金生町」で降りることにした。バスを降りると、南国鹿児島らしい強い日差しと、市電が目に入った。また、路盤は暑熱対策のため、緑地化工事が進められていた。
 鹿児島市電は大正元年(1912)鹿児島電気軌道として開業したのが始まりである。その後、昭和3年(1928)には鹿児島市有路線となった。昭和60年(1985)国道3号線渋滞措置により伊敷線、上町線2路線が廃止されたが、現在は再び延伸計画が持ち上がっている。また、昭和63年(1988)からはセンターポール化工事が行われ、平成14年からは、超低床電車(ユートラム)が導入されている。
(ユートラム7000形5連接車)
(9500形電車)

 今回は、現有2路線の唐湊線、谷山線の双方を利用した。この後は、市役所へ向かった。

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橘寺

2008-07-23 00:30:37 | ほとけのいおり

(たちばなでら 橘樹寺 天台宗(旧法相宗)仏頭山上宮皇院菩提寺 奈良県高市郡明日香村橘 国指定史跡 仏像等:国指定重要文化財)
  石舞台から北西に向かうと橘寺に差し掛かる。推古天皇十四年(606)第三十一代用明天皇(橘豊日命)の別宮を寺院に改めたとされる橘寺は、敏達天皇三年(574)に用命天皇の皇子、聖徳太子が生誕した地とされ、また、太子創建七ヶ寺(法隆寺、法起寺、中宮寺、葛城寺、四天王寺、広隆寺、橘寺)の一つである。本尊は聖徳太子坐像(室町時代)と、如意輪観音坐像(平安時代)であり、昭和28年(1953)からの発掘調査により、四天王寺式(中門、塔、金堂、講堂が直線に並ぶ方式)の伽藍配置であったことが分かっている。現在建つ、本堂(太子堂)、観音堂(如意輪堂)、経堂は江戸末期の再建ながら、礎石の一部には創建当時のものが残る。
(元治元年(1864)再建 太子堂)
(観音堂)
    (五重塔跡心礎)
(礎石) 
 訪れたこのときは、収蔵庫である聖倉殿が開放されており、平安前期の「日蘿像」、平安後期の「地蔵菩薩立像」、鎌倉時代の「だ太鼓の縁」、室町時代の「石灯篭」と、「絹本聖徳太子八幅絵伝」(全て重文)を拝観した。
(往生院天井画)

 この後は、北隣の川原寺跡に向かった。

(関連記事:二面石

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伏見城

2008-07-22 00:00:49 | 城郭・城下町
(木幡山城 京都市伏見区桃山町 石垣:市指定文化財)
 明治天皇陵を含む丘陵地一帯には、かつて伏見城が存在した。文禄五年(1596)豊臣秀吉が地震で倒壊した指月山城をこの木幡山に移築したのが始まりである。然し、翌々年には秀吉が没し、その二年後には伏見城の戦いで城は焼失した。
 慶長五年(1600)徳川家康によって再建されたが、大坂城へ次第に役割を移譲し、寛永二年(1625)廃城となった。その際、櫓と御湯殿は備後福山城へ、表門は西隣の御香宮神社へ、城門は大和郡山城へ、その他の櫓及び石垣は大坂城等に利用された。廃城後は開墾され桃畑となり、桃山と呼ばれるようになった。「安土桃山時代」「桃山文化」は、ここから後に使われるようになったものである。
(旧伏見城櫓 福山城伏見櫓)
(旧伏見城表門)
 昭和39年(1964)二の丸跡の一角に「伏見桃山城キャッスルランド」が開園し、五層六階の大天守と三層四階の小天守が及び城門が築造された。伏見城とは関係のない施設であるが、平成15年に来園者減少によるキャッスルランド閉園の際も、地元の要望により模擬天守は残されることになった。
       
 「伏見城」としての面影は城内には殆どないが、御香宮神社境内や、伏見桃山陵参道脇、桃山東小学校には、伏見城で使われていた石材が置かれている。
    
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鎌倉街道 萱津

2008-07-21 01:00:28 | 街道・宿場町

(愛知県海部郡甚目寺町上萱津・中萱津・下萱津)
 中村東宿から庄内川豊公橋、新川萱津橋を渡ると、萱津南宿に差し掛かる。古東海道である鎌倉街道は、川を沿うように進み、旧街道筋には幾つもの神社寺院がある。その中には、当初は真言宗であったが、元応二年(1320)日蓮宗として再興し、清洲城織田敏定に縁のある長久山實成寺があり、国指定の本堂、清洲城主福島正則が寄進したという山門が残る。また、隣接して正善寺、泉龍寺、國行寺があり、俗に「四ッ寺」と呼ばれている。更に北に進むと、弘安五年(1282)一遍の弟子他阿真教によって開山したという時宗横笛山光明寺(萱津道場)があり、豊臣秀吉幼少の日吉丸の頃、この寺で修行したという。また、隣接して三嶋神社がある。
(實成寺)
  
 上萱津に差し掛かると、福島正則が清洲城の長家を移築し、庫裡として寄進したという妙勝寺と、妙教寺、正法寺等があり、正法寺には伝説があって、陸奥国信夫郡(むつのくにしのぶぐん:現福島市)から来た藤姫という女性が、京にいる父を訪ねて、夫と共にこの萱津の宿まで来たところ、病のために十六歳で生涯を閉じたのだという。後日、京の父がこの地を訪れ、反魂香(焚くと煙の中に死者が現れるとされる香)を焚いたが、逢うことができず、以来この付近を「阿波手森(あわでのもり)」と呼ぶようになったという。また、阿波手の社と呼ばれ、草の神とされる鹿屋野比売神(カヤノヒメ)を祀る萱津神社があり、漬物の神社とも言われている。日本武尊がこの地に立ち寄った際、村人が漬物を献上した。武尊は、その漬物に対し「藪に神物(こうのもの)」と言い、以来漬物のことを「香の物」と呼ぶようになったと言われている。
  (正法寺)
  

(関連記事:甚目寺

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鹿児島へ

2008-07-20 00:00:17 | 漂い紀行

 実は私は、九州に足を踏み入れるのは初めてである。当初6月を予定していたが、時間的に都合がつかず、この日となった。6月の予定日は当初雨天予報であったが、直前の取り止めをした途端に晴天予報へと変わった。私の小雨男能力がまた発揮されたわけである?
 今日も予報では晴天であったが、いざ私が現地に着くと梅雨明けしているにも関わらず、下り坂の天候に変わった。
 飛行機は錦江湾側から進入し、滑走路に着陸するのだが、空港の標高が約200mの台地上であるため、急速に陸地が近づく感じがあった。
 
 空港に到着したが、チケットに一部誤りがあり、二時間以上足止めをくらってしまった。やはりツアー絡みの旅行は私には不向きなようである。その後、やっと処置が済み、空港からバスに乗り鹿児島市内へ向かうと、その長い距離を感じた。噴煙を上げる桜島を考慮しての空港位置だろうか。
 トラブルにより、自分以外の作用が働くと今度はカンカン照りになり、ジリジリするほどの暑さとなった。スタートが遅くなったことに加え、初日は通信による生涯学習の授業もあり、到着三時間で宿泊先に入ることになった。

 暑い時期に暑いところは、非常に季節感を得られる。おつな行動とでも取りあえず記しておこうか。

(関連記事:西郷公園

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河渡宿

2008-07-19 00:00:26 | 街道・宿場町
(ごうどしゅく 中山道五十四番 岐阜市河渡)
 弘法のある鏡島から長良川を渡ると河渡宿である。左に湾曲した長良川の右岸氾濫原であるため、幾度となく水害に見舞われ、更に第二次世界大戦による空襲を受けたため古くからの名残は少ないが、川岸には天保十三年(1842)に創建した馬頭観音堂(愛染明王堂)がある。宿場は洪水対策により、代官松下内匠によって文化十五年(1818)に宿場全体の土台の嵩上げ工事が行われ、石垣等で一段高く基礎が組まれている。また、戦後に長良川の改修工事が行われたため、馬頭観音堂の移転も含め、旧宿場の面積が若干小さくなっている。
        (鎮守 杵築神社)

(関連記事:加納宿 美江寺宿
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石舞台古墳

2008-07-18 00:00:31 | いにしえびとの睡

(奈良県高市郡明日香村島庄 国指定特別史跡)
 稲渕、祝戸から飛鳥川沿いに下ると、13年振りの石舞台に着く。明日香村の代表的な名所となっているため、多くの人が訪れているが、最後まで古代の墓であることを知ることなく後にする者もいるようである。
    
 石舞台は、古墳時代後期に築かれた古墳であり、蘇我氏の墓とみられている。早くから封土(墳丘の土)が除去或いは流出し、巨大な石が露出していたため、石舞台と呼ばれるようになったようである。昭和8年(1933)と昭和10年(1935)に発掘調査が行われたが、既に遺物等はなく、内部及び外部施設の調査が行われた。その結果、外周に方形の土堤と堀が検出され、方墳であることが分かった。然し、上部の形状については分かっていない。


 この後は、橘寺に向かった。

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柏原陵

2008-07-17 00:00:36 | いにしえびとの睡
(かしわばらのみささぎ 第五十代桓武天皇陵 京都市伏見区桃山町)
 明治天皇陵の北西には、桓武天皇の陵墓がある。名を日本根子皇統弥照尊(ヤマトネコアマツヒツギイヤデリノミコト)と言い、別名を山部親王、或いは柏原帝と言う。天平九年(737)に白壁王(光仁天皇)の第一皇子として誕生し、天応元年(781)に即位、都を平城京から長岡京、そして平安京に遷している。延暦二十五年(806)に崩御し、当初は山城国葛野郡宇太野(京都市右京区宇多野)に陵を築く予定であったが、急遽変更され、この地に築かれた。江戸時代には、周辺の古墳が桓武天皇陵と推定されていたことがある。
  
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