(北海道函館市元町)
元町公園及び函館病院のあった辺りは宇須岸(うすけし)河野館のあった場所である。享禄三年(1454)津軽の安東政季(まさすえ)、相原政胤(まさたね)、武田信広、茂別家政と共に、伊予河野氏族の河野政通は、蝦夷地宇須岸に渡来し館を構えた。館の形がアイヌの建物とは違い箱形をしていたため箱館と呼ばれ、函館の地名由来になったとされる。アイヌ勢に何度となく攻められ、永正九年(1512)の攻撃で陥落し、政通の子季通(すえみち)と娘を逃がして政通は自害した。政通の孫娘は蠣崎季広の妻となり、二人の間の子は松前藩初代の松前慶広である。宝暦三年(1753)跡地に設けられた時の亀田奉行は、政通の供養碑を旧称名寺(市内弥生町)の境内に建立した。その後当地は、開拓史函館支庁、道庁函館支庁等行政の中心地として繁栄した。
(愛知県宝飯郡小坂井町小坂井字才ノ木 1983年)
小坂井の才ノ神は、村に悪疫の侵入を防ぐ役割の塞ノ神(さえのかみ)及び、道中安全の道祖神を合わせ持つ神である。その才ノ神を取り巻く小さな森を才ノ木と呼んでいる。
九州の玄関口、北九州を訪れる。北九州は城下町の小倉、本州との接点の門司、製鉄の八幡、工業・鉱業港の戸畑、若松が合併して成り立った、個性的な政令指定都市である。駅を降りると新交通システムの北九州モノレールがあり、東西に門司往還、川に沿って秋月街道が延び、古くからの交通の要衝としての機能を今も伝えている。
(門司往還 京町銀天街)
(魚町)
(勝山通り)
(紫川)
(秋月街道)
(関連記事:小倉城)
(平泉館 岩手県西磐井郡平泉町平泉字伽羅楽 国指定史跡)
嘉保年間(1094-5)藤原清衡(きよひら)は江刺郡豊田館より中尊寺の丘の麓である当地に転じ館を構え、あわせて町割を築いた。然し、文治五年(1189)源頼朝の軍勢によって焼き討ちされ、灰の原となった。昭和44年(1969)から発掘調査が開始され、検出された遺構の重要性から、遊水池やバイパス道路等の遺跡内での計画が見直されている。
(大型建物跡)(付属建物跡)(再現道路)(竪穴建物跡)(高館を望む)(高床建物跡)(園池)(内堀)
(浄土真宗雲龍山勝興寺 富山県高岡市伏木古国分 国指定重要文化財)
文明三年(1471)砺波郡土山村(どやま:南砺市)で蓮如によって創建された、土山御坊を始まりとする。明応三年(1493)近隣高木場村に移転した後焼失、永正十四年(1517)佐渡にあった殊勝誓願興行寺(勝興寺)を復興する形で再興された。翌々年には安養寺村(小矢部市)に移転、越中一向一揆の拠点となった。天正十二年(1584)佐々成政は一向一揆に古国府城を一向一揆側に提供し、勝興寺は古国府城(現在地)に移転した。江戸時代には加賀前田氏により繁栄し、伽藍が整備されていった。現在は平成の大修理で十年度より、各伽藍の修理が進められている。
(重文 本堂 寛政七年)
柱の節の部分を用い、龍が酒を飲みながら月を愛でる様子を表している。
(重文 経堂 文化二年)(実ならずの銀杏)(勝興寺七不思議) (重文 唐門 明和六年)(重文 鼓堂 享保十八年)
訪れた際、勝興寺七不思議の一つ、三葉の松と栞を頂戴した。
(うたりじんじゃ 愛知県宝飯郡小坂井町小坂井字宮脇 旧県社 1983年参拝)
雄略天皇年間(456-79)、柏木浜(小坂井町平井・現在海岸は後退)に穂国造(ほのくにのみやつこ)によって創建されたというこの神社は、朱鳥元年(686)現在地に遷座したという。祭神は菟上足尼命(うながみのすくねのみこと)を祀る。境内地一帯は縄文晩期の遺跡及び貝塚であり、宝物として平安後期の大般若経五百八十五巻(国重文)を所蔵する。
(愛媛県今治市喜田村 旧村社)
国府津推定地の近くには、伊予津彦命(いよづひこのみこと)を祀る椿森神社がある。伊予国司小千(越智)玉興が崇敬し栄えたという。
(神社南側の喜田村公園内に建つ須沙賀神社跡碑)
(岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立)
中尊寺を下ると、「卯の花清水」と刻まれた石碑と清水があった。元禄二年(1689)松尾芭蕉と共に訪れた曽良は、「卯の花に兼房みゆる白毛かな」と句を詠んだ。それは、源義経の臣増尾兼房が隣接する高館落城の折、白髪を振り乱しながら奮戦し、遂には死を遂げた様を、白く咲き乱れる卯の花に例えたものという。
(東京都中央区室町)
日本橋から神田へ向かう途中の町である。日本橋三越や三井本館など、三井系の近代建築も残る傍ら、近年では「日本橋室町東地区開発」により、COREDO室町(室町東三井ビルディング)や YUITO(日本橋室町野村ビル)などの高層ビルが増えている。神田との境にあった江戸城外堀、竜閑川には今川橋が架かり、中山道を結ぶ橋として重要なものであったが、昭和25年(1950)に埋め立てられ、橋もなくなってしまった。