(京都市左京区南禅寺福地町)
明治23年(1890)琵琶湖疎水、鴨川を利用し、舟運の開発が行われた。京都と琵琶湖には36mの高低差があったため、傾斜鉄道(インクライン)を築造し、舟を載せて運んだものである。昭和23年(1948)まで使用された。
(真言宗摩尼山総持院西國寺 広島県尾道市西久保町 国指定重要文化財)
治暦二年(1066)火災により伽藍の大半を焼失したが、白河天皇により復興された。永保二年(1082)白河天皇の祈願所となり、更に天仁元年(1108)には法皇となった白河上皇により勅願寺となって、官寺として百を超える末寺を持った。正和元年(1312)花園天皇の綸旨を受け寺院の名称を西國寺とした。然し、永和年間(1375-1378)に再び火災に遭い、備後国守護の山名氏が寺院の復興にあたった。永享元年(1429)には、足利義教が三重塔(国重文)を寄進している。西國寺の宗派は醍醐派であるが、一時西國寺派の総本山を名乗っていた。現在は醍醐派に戻っている。
(県重文 仁王門 慶安元年) (国重文 金堂 至徳三年)
最近また、よく見かけるようになってきた今治のタオル。
タオル日本一の愛媛今治は、近年外国製に押され、かつ街の衰退で目もあてられない状態になっていた。
しかし、また今治ブランドが復活し、愛知在住で今治に本籍を持つ私も嬉しく感じる。
箱の中の紙に「蒼社川の名水」と書かれている。
今治市を流れる蒼社川を亡き父が、水がいいと言っていた。
確かに今治での飲み物は美味しかったことを思い出す。
(曹洞宗龍雲山三明寺 愛知県豊川市豊川町波通)
応永年間(1394-1428)無文元遷(後醍醐天皇第十一皇子)が河野伊予守と加茂郡広沢(愛知県豊田市猿投町)から引佐郡奥山(浜松市北区引佐町)に向かう途中、鎌倉街道沿いの荒廃した三明寺を復興したと伝えられている。
(鳥取県米子市岩倉町)
珠慶山生蓮院涼善寺境内には、南朝の将、児島高徳の顕彰碑がある。これは、高徳の遺徳を偲んで建立されたものであるが、涼善寺には高徳から十七代の子孫、古谷作太夫一政の位牌が安置されている。これは、元文五年(1740)一政の子、古谷如水が作り、凉善寺で供養を行ったというものだという。また、高徳が米子で没したという伝説が残っている。
現在、台風が最も接近した状態にあるこの地方。我が家は河岸段丘上の中央に住んでいるため浸水、崖崩れ等の心配はないが、段丘下に下りてみると、一時期よりは水嵩が減っているようだが、いつもの何倍もの川幅になった豊川があった。
(東名高速)
(河川敷に水が押し寄せた跡)