承安五年(1175)専修念仏(南無阿弥陀仏と唱え続ければ往生できる宗教思想)を広めるため、比叡山を下りた僧法然が草庵を結んだのが浄土宗の始まりである。然し、その思想に反対する比叡山延暦寺の僧徒が蜂起となり、法然は流罪となって讃岐に流された。法然は四年の流罪後、洛東大谷に住み、同地で没した。没後、四条天皇によって寺号が下賜され、徳川家により繁栄した。
承安五年(1175)専修念仏(南無阿弥陀仏と唱え続ければ往生できる宗教思想)を広めるため、比叡山を下りた僧法然が草庵を結んだのが浄土宗の始まりである。然し、その思想に反対する比叡山延暦寺の僧徒が蜂起となり、法然は流罪となって讃岐に流された。法然は四年の流罪後、洛東大谷に住み、同地で没した。没後、四条天皇によって寺号が下賜され、徳川家により繁栄した。
多賀城は、神亀元年(724)按擦使(地方長官)大野東人によって陸奥国府及び、蝦夷征討鎮守府として整備された。天平宝字六年(762)には、藤原朝 によって改修されたと、多賀城碑に記されている。宝亀十一年(780)伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱で焼失するが、間もなく再建され、延暦二十一年(802)鎮守府が坂上田村麻呂によって胆沢城に移された後も、国府として存続し続けた。貞観十一年(869)の地震で被害を受け、再び再建されている。平安中期に国府の移転、衰退となるが、鎌倉、南北朝時代には、この地に陸奥将軍府が置かれた。
政庁跡は約100m四方の面積があり、昭和38年からの発掘調査によって、4期の時期に分けられ、正殿基檀、脇殿、門基礎、礎石、築地、敷石等が検出されている。
(南門跡)
(西側築地)
(西門跡)
(政庁前敷石)
(政庁跡)
(北側築地)
(関連記事:太宰府政庁跡)
三条大路の裏手に、素盞鳴尊(スサノオノミコト)を祀る社がある。
延暦十三年(794)平安京造営の際、大内裏鎮護のため都の四隅に素盞鳴を祀って大将軍と称し、邪霊の浸入を防ぐ意をもって創立されたものという。この東三条社は、東南隅粟田口であった。また、境内には藤原兼家邸跡がある。
(宮城県多賀城市市川 国指定重要文化財)
奈良時代、多賀城の修築記念に建てられた、高さ約2m,砂岩の石碑である。江戸時代前期にこの地で発見され、碑文や書体から、贋作説が長らく出ていたが、発掘調査によって碑文の時期に多賀城が改修されていたことや、当時の碑の基礎が確認されたこと、書体も当時のものであると再確認されたことによって、本物であると断定された。松尾芭蕉の「奥の細道」、西行の「山家集」等には、「壷の碑」として詠まれている。
碑文
去京一千五百里
多賀城
去蝦夷国界一百二十里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
西
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
府将軍藤原恵美朝臣朝獦
修造也
天平宝字六年十二月一日
金華山東斜面から発した逆川は、達目洞の山懐を東に流れて日野の集落に向かって流れて行く。北側を流れる長良川の逆向きに流れるのが、この逆川である。上流は環境保全地区となっており、絶滅危惧Ⅱ類のスイレン科水生植物であるヒメコウホネ(姫河骨)が自生している。地区内を通ることになった都市計画道路岐阜環状線の築堤も、これらの保護のため、高架に変更されている。
(愛媛県立とべ動物園 愛媛県伊予郡砥部町)
松山を南下、砥部町に入る。丘陵地を造成し設置された県立運動公園内動物園はあり、昭和63年(1988)道後公園より移転したものである。
フラミンゴ(Flamingo)は、鳥綱フラミンゴ科に属し、アフリカ、南欧、中南米に棲息する。とべ動物園には、チリーフラミンゴとコガタフラミンゴが飼育されている。
(関連記事:Tobe Zoo ペンギン アメリカバイソン ボリビアリスザル フサオマキザル ムツオビアルマジロ ニホンリス カバ チャップマンシマウマ アミメキリン クロサイ アジアゾウ ベンガルトラ パタスザル アカカンガルー ニホンザル アジアスイギュウ ヒトコブラクダ マレーヤマアラシ ホンドタヌキ ホッキョクグマ カリフォルニアアシカ ケヅメリクガメ)
(大下田古墳 砥部川 宮内天満宮)
金華山の東麓、達目洞(だちぼくぼら)に小さな社殿がある。尾張藩から金華山守を命じられ、付近を開墾した臼井岩入が万治二年(1659)に建立したものという。参道の入口に末裔が住んでいる。