(愛知県豊橋市曙町松並・高師町北原 2005年12月15日)
ユニチカ豊橋工場に向けて線路が敷かれている。これは昭和26年(1951)大日本紡績(1969-ユニチカ)豊橋工場開設の際に名古屋鉄道(1954-豊橋鉄道)渥美線高師駅から約1kmの貨物引込線を敷設し、材料並びに製品を運搬した路線の名残である。高師緑地内は昭和52年(1977)の廃線後に路盤を撤去したが、県道伊古部南栄線(野依街道)から工場までは同工場の敷地として路盤はそのままに道路化された。現存する渥美線と並列する区間には、昭和13年(1938)製神中鉄道(1943相模鉄道に合併)キハ40形の改造である、半流線形14m車のク2400形が昭和54年(1979)頃から暫く留置されていた。
2005年12月15日
2015年9月21日
設備の一部が残るユニチカ3号踏切
高師緑地内路盤跡遊歩道
渥美線旧並走区間
一部が留置線として残る合流地点
(愛知県豊川市豊川町遠通)
豊川の遊郭の一つがあった遠通(おどおり)を漫ろ歩く。豊川町の通り名はイロハ順の文字を当てているため、地名自体には意味はない。私が子どもの頃と比べると、付近は往時の面影は少なくなり、区画整理が進んで変貌を遂げていた。然しながら二軒の建物が残り、遠い過去の記憶を今に伝えていた。
(愛知県豊川市麻生田町前通 1990年8月27日)
市営上野住宅改築に伴う発掘調査の情報を知り踏査した。建物の基礎工事で破壊される部分600m2の発掘調査が行われ、昭和37年(1962)東名高速道路建設に伴って実施された遺跡に隣接する上野古墳発掘調査時に、墳土の中から弥生土器が出土したことから住居跡の存在が予想されていた。検出された遺構は調査A地区で14棟分の竪穴住居が確認され、弥生後期前半の三河編年式寄道(豊橋市瓜郷町寄道、瓜郷遺跡を標式とする)期のものが多く、奈良期の竪穴住居や時期不明の土坑も検出されている。また、8号住居跡からは一辺9m,床面積50畳分の規模を持つ住居跡が確認されている。更に撹乱層からは打製石器や凹石も出土している。そして、予想される遺跡規模は約100棟分の住居跡が存在すると推定されている。 中央・右下:弥生後期前半(寄道期)住居跡,左・右上:奈良ー平安初期住居跡
(愛知県宝飯郡一宮町大木字山ノ奥 1999年5月16日・6月7日)
陸上自衛隊日吉原演習場の東は弥生時代後期の遺跡である。今回遺跡範囲内に都市計画道山ノ奥樽井線が築造されることに伴う発掘調査が行われたため踏査した。
(熊本市中央区井川淵町 旧国幣小社)
承平五年(935)承平・天慶の乱の藤原純友への追討と九州鎮護のため、勅願により宮崎庄茶臼山(熊本城藤崎台)に創建したのが始まりという。近世には社地が熊本城の一部となり同鎮守社とされた。然し、明治10年(1877)西南戦争により社殿を焼失したため、現在地に遷宮している。
(極楽寺坂切通 神奈川県鎌倉市極楽寺・坂ノ下)
鎌倉の西の切通である極楽寺坂は、正元元年(1259)真言律宗霊鷲山極楽寺開山の忍性によって開削されたのが始まりという。そして、この霊山北側は地獄谷と呼ばれ、死体が転がるような場所であったという。その後、元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際に付近は激戦地となっている。現在の坂は大正時代に約6m掘り下げられたものである。 成就院虚空蔵堂
虚空蔵菩薩の化身とされる光る石が見つかったという星の井
導地蔵堂
極楽寺
極楽寺駅・極楽寺トンネル
(静岡県天竜市二俣町南鹿島 2005年6月1日)
春野に向かう途中、バスに乗り換えのためこの駅に降り立った。西鹿島駅は遠州鉄道と天竜浜名湖鉄道の共同駅(管理は遠鉄)で、明治42年(1909)大日本軌道鹿島線(後の遠鉄西鹿島線)鹿島駅として現駅より天竜二俣駅寄り400mに開業したのが始まりである。一時、遠州二俣駅と名乗ったが、昭和13年(1940)国策により東海道線のバイパス線である二俣線(後の天竜浜名湖線)敷設により現駅に移転し、二線共同駅となり西鹿島駅と改称された。また、昭和33年(1958)から41年(1966)まで、一部の遠鉄列車(キハ800形:旧国鉄キハ04形)が非電化である二俣線遠江二俣及び遠江森まで乗り入れていた。西鹿島駅舎は昭和54年(1979)に改築されたものであり、構内には昭和52年(1977)遠州西ヶ崎から移転してきた遠鉄工場・車庫がある。
(関連記事:二俣 細江駅 知波田駅 遠州森駅)
(愛知県豊川市麻生田町前通 1990年8月27日再踏査)
かつては9基からなる古墳群であったが、開墾や東名高速道路築造によって滅失し、この1号墳だけとなった。寛永十九年(1641)創建の曹洞宗井上山西光寺境内にあり、直径14m,高さ2mを測る。墳丘には寺の守護神の祠が置かれている。
(きよおか 愛知県新城市作手清岳)
旧作手地区には25年振りに訪れる。自宅とは本宮山を挟んで隣地区ながら、標高が500m違い明らかに気温が低く感じた。挙母街道沿いのこの集落は、かつて市場村、須山村、北畑村に分かれ、明治の大合併で清岳村と名付けられている。
(熊本市中央区下通)
五年振りの下通アーケードを漫ろ歩く。個人商店は元気な感じがしたが、かつて賑わっていたダイエーが再開発のため更地となっていた。更にアーケード西口の県民百貨店閉店により、東口の鶴屋百貨店の独壇場となった。また、アーケードに隣接してカリーノ下通店があるが、昭和43年(1968)熊本出店を機に、大分県佐伯市から本社移転してきた寿屋百貨店(分類上はスーパー)が前身である。下通寿屋百貨店はRC造7階地下1階であり、当初は百貨店業態であったが、平成10年からはテナントにウェイトを置いた「with下通寿屋」となった。寿屋の最盛期は九州全土に店舗網を広げ、年間売上2,000億超え、従業員数も1万人近くに達したが、バブル崩壊後の売上減少と他店の攻勢に遭い財務状況が悪化し、平成13年に民事再生を申請、翌年までに全店舗が閉鎖となった。再生後は小売業から不動産業に転換し、一部は旧店舗によるテナントビル「カリーノ」になった。
カリーノ下通
(豊橋環状線 愛知県豊橋市川崎町・三ツ相町 1999年5月15日)
豊橋市内の豊川に架かる橋が少なく、慢性的な渋滞が発生している。それを解消させるため、豊橋(とよばし)と渡津橋の間に計画された橋である。長さは305m,4車線の豊橋環状線を延長する形で架けられたが、幅員14.5mの2車線で、2004年の完成が予定されている。