(神奈川県藤沢市鵠沼石上)
石上(いしがみ)の地名の最古の記録は、弘安八年(1285)『吾妻鏡』に「石上郷、鎌倉の法華堂領となる」である。平安時代以前は土甘(とかみ)と呼ばれ、文治二年(1186)西行(さいぎょう)が詠んだ歌や、同時期に鴨長明(かものちょうめい)が詠んだ歌に「砥上原」(とがみがはら)と記されている。その後、砥の字の偏を読み「いしがみ」となり、信仰対象である「石神」と相俟って、石上(いしがみ)となったと推測される。現在石上会館に隣接する石上神社は、かつて境川沿いに鎮座し、石上公園に建つ江の島道標は、藤沢宿朝日町にあったものである。
(静岡県浜名郡新居町浜名 2006年8月31日)
寺伝では仁和二年(886)薬師像と仁王像が海で漁人の網に入り、賢嶺法印が薬師堂を創建したのが始まりという。その後、建保五年(1217)仏師運慶法印が薬師如来、脇侍仏、十二神将を開眼し、開山したとされる。当初は真言宗であったが、臨済宗に改宗されている。
(神田神社 東京都千代田区外神田 旧府社)
天平二年(730)真神田臣(まかんだのおみ)が先祖の大己貴命(おおなむちのみこと)を豊嶋郡柴崎村(千代田区大手町)に祀ったのが始まりという。その後、平将門が近くに葬られ、間もなくして天変地異が頻発し、それが将門の神威として人々を恐れさせたため、時宗の僧真教が供養し、延慶二年(1309)には神田明神に合祀された。元和二年(1616)江戸城表鬼門にあたる現在地に遷座し、幕府により社殿が造営されている。
(東京都千代田区神田駿河台)
太田持資(後の道灌)の姫は、天然痘を罹ったため、山城国の一口(いもあらい:京都府久世郡久御山町)稲荷神社に病の平癒を祈願した。それにより姫は全快したため、持資は長禄元年(1457)一口稲荷を江戸城鬼門側に建て遷座した。その後、天正十八年(1590)徳川家康の関東移封により、現在の錦町一丁目に移し、慶長十一年(1606)江戸城増築に伴い、現在の神田川聖橋の袂に移した。明治5年(1872)現社名に改められた後、昭和6年(1931)総武線建設により、現在地の駿河台一丁目に移されている。
(東京都千代田区神田駿河台)
一部分だけ往時の意匠を残すビルがある。かつての本館は大正14年(1925)アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズによって設計され、RC造4階の社屋として築造された。昭和62年(1987)お茶の水スクエアとして改築された際に旧館の外壁が再現されたが、平成14年(2002)日本大学が取得している。
(静岡県浜名郡新居町新居 旧郷社 2006年8月14日)
室町時代の記録「文和風土記」に、景行天皇十九年(89)創建と記載され、猿田彦命「さるたひこのみこと」を祀っていた。平安時代の「延喜式神名帳」には猪鼻湖神社とあり、当初は浜辺に鎮座したという。永正年間(1504-20)高波で被害を受け、現在地の東方「大元屋敷」に遷座した。天正十年(1582)山本勘助臣井口嘉末が信州からこの地に移住し、諏訪大神を合祀して、後に諏訪神社と称するようになったという。元禄十五年(1702)新居関所が三河吉田藩の管理となり、歴代藩主や関所奉行、関守から崇敬され、宝永五年(1708)現在地に遷座した。