(浄土宗霞関山本覚院太宗寺 東京都新宿区新宿)
(東京都文京区小日向)
開山は寛永元年(1624)。慶安三年(1650)徳川家光が鷹狩りの帰途、庭一面に藤の花咲くのを見て、「これぞ藤寺なり」と言ったという。境内に尾張屋寄進の石造十一面観音像があり、傍らには観音水がある。また、板碑型の庚申塔がある。
(神奈川県鎌倉市大町)
真言宗能成寺として開山し、弘安五年(1282)公忍のとき、一遍に帰依して覚阿と改名し、時宗となった。境内には室町幕府に対し永享の乱を起こし自害した鎌倉公方足利持氏の宝塔(供養塔)と、一夜菜稲荷の祠がある。昔、名越に住む稲荷を信仰する村人が夢中枕頭に白髪の翁が立ち「我は汝の日頃信ぜる佐竹稲荷の化身なり。此度の悪疫の流行、庶民の難渋まことに不愍のいたり、見るに堪へざる所なり。されば、我が祠前に菜種を蒔き、其れわ摘みて服用すべし。必ず効験あらん」と告げた。村人は祠前に菜種を蒔き、一夜にして菜五寸余になったという。故に一夜菜稲荷と呼ばれるようになった。
(曹洞宗福地山修禅萬安禅寺 静岡県伊豆市修善寺 2015年6月13日)
大同二年(807)空海によって真言宗桂谷山寺として開創されたという。建仁三年(1203)鎌倉幕府二代将軍源頼家は北条氏によって修禅寺に幽閉された。頼家は川のほとりに住む面打師夜叉王に自分の顔を写した面を頼んだ。夜叉王には桂という娘がおり、頼家の幽閉先に奉公させることにした。然し、翌年に北条氏臣が修禅寺へ夜討ちを謀り、桂は頼家の顔を写した面をつけ頼家の身代わりになったが、頼家も討ち死にした。建長年間(1249-55)南宋渡来僧蘭渓道隆によって臨済宗に改められ、その後兵火によって荒廃したが、北条早雲によって再興された。
(静岡県三島市一番町 市指定天然記念物)
かつて愛染院は三嶋大社の別当(神宮寺)であったが、安政大地震によって倒壊し、再興されないまま明治維新の神仏判然令によって廃寺となった。溶岩塚は富士山の噴火によって流出した溶岩が凝固したもので、愛染院のあった辺りでは塚のように盛り上がっていたためこう呼ばれた。
(長野県木曽郡大桑村須原 2014年11月8日)
嘉慶年間(北朝1387-9)木曽親豊により創建され、文安五年(1448)木曽川氾濫による被害を受けたが、木曽家賢によって再建された。慶長三年(1598)犬山城主で木曽代官でもあった石川光吉(貞清)によって本堂、山門、庫裏が造営され、国指定重要文化財となっている。
(長野県塩尻市贄川 2014年11月8日)
大同元年(806)創建とされ、武田勢が木曽氏を攻めた際、兵火により焼失した。慶長二年(1597)再興され、現存する楼門は寛政四年(1792)、本堂は安永四年(1775)に造営されたものである。
(長野県木曽郡上松町上松 2014年11月6日)
浦島伝説のある木曽川寝覚の床のほとりに臨済宗臨川寺はある。創建時期は不詳ながらこの地に浦島堂と呼ばれる弁天を祀ったのが始まりとされ、寛永元年(1624)尾張藩主徳川義直の命により木曽代官山村良勝が堂宇を造営したという。