(京都府宇治市東笠取・滋賀県大津市石山内畑町・石山外畑町・大石中)
笠取集落から笠取川に沿って低い方へ歩いていくと、やがてトンネルに差し掛かった。そのトンネルを抜けると間もなく京滋バイパスの橋脚が見えた。このときには携帯電話の電池がなくなっていて、詳細な位置を確認することも、どこかに連絡することもできなくなっていた。付近には歩く人もなく、宇治市街に向かうには峠を越えなければならないようであり、必然的に瀬田川に沿って大津方向に歩を進めることになった。そして次第に夕暮れとなっていった。
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(小千玉純 愛媛県今治市別名 1982年5月)
「玉澄さんの楠」と呼ばれているところは、越智玉澄の墓所である。また、別名(べつみょう)の地は、大宝の頃(701~704)大三島大山祇神社の大祝(おおほうり)職であった玉澄の子安元が屋敷を構えたところである。その後代々三島大祝を世襲し、天正五年(1577)までこの地に住していたが、世継ぎが無かったために分家鳥生大祝家に家督を譲った。
玉澄は伊予国越智郡大領(郡司長)で、別名の地に居を構えていた。玉澄は大山祇神社の社殿造営や、和銅五年(712)には別宮大山祇神社(今治市別宮町)を勧請、養老元年(717)には宇摩郡に三島神社を勧請(旧伊予三島市、現四国中央市)、天平元年(729)には温泉郡(松山)石手寺を再建している。
天平十九年(747)玉澄が没し、この別名の地に墳墓を造った。その墳墓の上に植えられたのがこの大楠といわれ、今でも「玉澄さんの楠」として親しまれている。
(関連記事:別名)
(京都府宇治市西笠取・東笠取)
醍醐山を東へ下ると、山に囲まれた笠取の集落となる。かつては西国三十三箇所巡礼で賑わったであろう往時を想像しながら、笠取川を下る。(笠取八景 時雨の宝筐塔)
(東笠取郵便局跡)
(浄土真宗西光寺)
(愛媛県今治市馬越 1982年5月)
鯨山古墳の上に建つ三島神社の参道脇には、今治藩の藩境碑がある。かつては西約500m、字山路の浅川・旧今治街道沿いにあったものを、道路拡幅を機にこの場所に移転させたものである。