(愛知県豊橋市高師町北新切)
三年振りに渥美線高師駅を降り立ってみる。名鉄からやってきた吊掛駆動式の車両たちは既になく、旧東急ステンレス車が赤、黄、青、緑の色をワンポイントとして与えられ休んでいた。また、はみ出しホームも健在であった。
(関連記事:渥美線留置車両)
三年振りに渥美線高師駅を降り立ってみる。名鉄からやってきた吊掛駆動式の車両たちは既になく、旧東急ステンレス車が赤、黄、青、緑の色をワンポイントとして与えられ休んでいた。また、はみ出しホームも健在であった。
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(愛知県田原市田原町汐見)
田原市図書館は、田原市文化広場内にあり、既設の文化会館、体育館に隣接して、田原町時代の平成14年に新たに加わった施設である。
図書館部分の延床面積は3972㎡,収蔵能力は35万点であり、構想、建設段階で9回に及ぶワークショップにより、住民の意見を取り入れている。また、業務委託を取り入れない図書館として好例といえる。
渥美町、赤羽根町との合併により、それぞれの旧図書館が分館となった。また、移動図書館として、いずみ号と、旧渥美図書館のやしの実号がある。
開館時間は10時から、火・水・金~7時、木~8時、土・日~5時であり、貸出期間は3週間となっている。
田原市図書館は、田原市文化広場内にあり、既設の文化会館、体育館に隣接して、田原町時代の平成14年に新たに加わった施設である。
図書館部分の延床面積は3972㎡,収蔵能力は35万点であり、構想、建設段階で9回に及ぶワークショップにより、住民の意見を取り入れている。また、業務委託を取り入れない図書館として好例といえる。
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渥美町、赤羽根町との合併により、それぞれの旧図書館が分館となった。また、移動図書館として、いずみ号と、旧渥美図書館のやしの実号がある。
開館時間は10時から、火・水・金~7時、木~8時、土・日~5時であり、貸出期間は3週間となっている。
(村上都市計画記念公園 新潟県村上市庄内町堀片 市指定有形文化財)
村上城があった臥牛山を下りると、突然の雨に見舞われた。急いで屋敷内に入る。
公園内には三棟の武家屋敷がある。この場所に元々あった旧藤井家住宅は、平成8年からの解体修理時に嘉永三年(1850)の墨書が確認されている。茅葺き平屋建てで、面積は147㎡,往時は村上藩士重野兵馬の屋敷であったとみられるが、明治中期に藤井氏の家となった。
旧岩間家住宅は元字飯野(旧五軒町)にあって、村上藩士須貝勝太郎の屋敷であった。茅葺き平屋建て面積109㎡であり、安政五年(1858)に長屋造りから一戸建てに改造されている。第二次世界大戦後に岩間氏の所有となったものである。
旧嵩岡家住宅は、元新町にあって、村上藩士嵩岡(たかおか)氏の屋敷であった。昭和62年に宅地造成によって解体されることになり、復元を前提とした部材の格納保存が成された。そして、平成5年皇太子成婚を記念し、小和田家と縁戚である嵩岡家の住宅の復元を、公園整備共々進められた。
(曲天井)
この日は、海上で竜巻が目撃されるなど、不安定な日であった。「新潟は変わりやすい天気だが、こんな分刻みで変わる天気は久し振りだ」という住人の声があった。そして、この住宅群を管理する職員方が雨戸を開け閉めする光景がみられた。
村上城があった臥牛山を下りると、突然の雨に見舞われた。急いで屋敷内に入る。
公園内には三棟の武家屋敷がある。この場所に元々あった旧藤井家住宅は、平成8年からの解体修理時に嘉永三年(1850)の墨書が確認されている。茅葺き平屋建てで、面積は147㎡,往時は村上藩士重野兵馬の屋敷であったとみられるが、明治中期に藤井氏の家となった。
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旧岩間家住宅は元字飯野(旧五軒町)にあって、村上藩士須貝勝太郎の屋敷であった。茅葺き平屋建て面積109㎡であり、安政五年(1858)に長屋造りから一戸建てに改造されている。第二次世界大戦後に岩間氏の所有となったものである。
旧嵩岡家住宅は、元新町にあって、村上藩士嵩岡(たかおか)氏の屋敷であった。昭和62年に宅地造成によって解体されることになり、復元を前提とした部材の格納保存が成された。そして、平成5年皇太子成婚を記念し、小和田家と縁戚である嵩岡家の住宅の復元を、公園整備共々進められた。
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この日は、海上で竜巻が目撃されるなど、不安定な日であった。「新潟は変わりやすい天気だが、こんな分刻みで変わる天気は久し振りだ」という住人の声があった。そして、この住宅群を管理する職員方が雨戸を開け閉めする光景がみられた。
(本庄城 舞鶴城 新潟県村上市村上 国指定史跡)
若林家住宅を後にし、城のあった標高135mの臥牛山に上がる。
戦国時代、本庄氏によって本庄城が築かれたのが始まりである。
(前ノ岳方面)
慶長三年(1598)加賀小松より村上頼勝が九万石で入り、村上藩となった。頼勝は城郭と城下町の拡大を行った。然し、頼勝の養嗣子である忠勝のとき改易され、代わって越後蔵王堂から堀直寄が十万石で入り、直次、直定と続いたが一時廃藩。正保元年(1644)遠江掛川より本多忠義が入るが間もなく陸奥白河へ転封、代わって播磨姫路より十五万石で松平直(なおより)が入った。
(下渡山方面)
その後、榊原政倫(まさとも)、政邦、本多忠孝、忠良、松平輝貞、間部詮房(あきふさ)、詮言(あきとき)、内藤信(かずのぶ)、信輝、信興、信旭、信(のぶより)、信敦、信思(のぶもと)、信民、信美(のぶとみ)と続き、廃藩を迎えた。
(三の丸跡)
このときは平成14年から行われている、石垣の修復工事がされていた。ふるさと創生資金や、個人の寄付等で復元がなされようとしているが、往時の櫓等の姿が不明確であり、更に約70億円の費用がかかると見積もられ、完成までの道のりは長い。
(関連記事:下渡門跡)
(新潟県村上市三之町 国指定重要文化財)
市役所、おしゃぎり会館に続き、若林家住宅を訪れる。元甲斐武田氏臣という村上藩士の若林氏は、二百石の石高を有した。現在残る屋敷は明和六年(1769)の火災以後に建てられたものである。その後、明治3年、12年、42年に修理改造が行われ、昭和61年から約1億円をかけ、復原修理が行われた。
市役所、おしゃぎり会館に続き、若林家住宅を訪れる。元甲斐武田氏臣という村上藩士の若林氏は、二百石の石高を有した。現在残る屋敷は明和六年(1769)の火災以後に建てられたものである。その後、明治3年、12年、42年に修理改造が行われ、昭和61年から約1億円をかけ、復原修理が行われた。
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