(臨済宗巨福山建長興国禅寺 神奈川県鎌倉市山ノ内 国指定史跡)
建長五年(1523)北条時頼によって創建された建長寺を訪れた。
総門 天明三年 旧京都槃舟三昧院
重文 三門 安永四年
国宝 梵鐘 建長七年
重文 仏殿 正保四年
本尊地蔵菩薩
重文 法堂 文化十一年
重文 唐門
大覚禅師作庭庭園と得月楼
(愛知県蒲郡市相楽町荒井 市指定史跡 1999年5月3日)
神亀年間(724-729)行基によって開基されたという。その後衰退したが、鎌倉時代、三河守安達盛長によって再興されている。往時は周囲に養圓寺、勢徳寺、多福院、直諦院、感心寺、般若院、慈雲院、護持院、松本院、千手院、中之院、普門院の十二の末寺が存在したという。文明二年(1470)隣接する萩原芳信が前年に築いた丹野城に牧野氏が攻め入り落城、この全福寺も廃絶した。現在は愛知県の野外活動施設・相楽山荘周辺に堂宇跡の礎石が残されている。
寺跡から御津方面を望む
東礎石遺構北東から
西礎石遺構東から
西礎石遺構南から
寺跡から蒲郡方面を望む
(Chiesa di San Giovanni in Bragora イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア市カステッロ)
バンディエーラ・エ・モーロ広場面するこのサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会は、8世紀に創建されたがその後荒廃し、15世紀に至って再興された教会である。イタリアで地震があった1678年3月4日、後に音楽家となるアントニオ・ヴィヴァルディがこの地で生まれ、この教会で洗礼を受けている。
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(沖縄都市モノレール 沖縄県那覇市)
一年半振りに沖縄を訪れる。本土が冬の気候に逆戻りするなか、20度の気温を維持していた。那覇空港からゆいレールに乗り込むが、システムが変わっていた。IC乗車券「OKICA」導入により、自動改札機の磁気乗車券挿入口がなくなり、スキャナによるQRコード読み取り方式に変わった。そのため、改札機で戸惑う利用者を多数見かける結果となった。また出場時、読み取った切符が従来のように回収されないため、利用者自身が改札機に付けられた回収箱に切符を入れるという状態になっている。
(愛知県岡崎市六供町甲越 1990年5月26日)
明治5年(1872)京焼の陶工永楽和全、轆轤師西山藤助及び九谷焼の絵付師平田常次郎らがこの地で作陶したのが始まりであるが、明治10年(1877)に和全は死去し、一旦作陶は途絶えた。明治17年(1884)に至り、岡崎永楽として再興、明治20年(1887)から明治25年(1892)まで甲山焼として作陶が行われた。
(日蓮宗慧雲山常栄寺 神奈川県鎌倉市大町)
妙本寺の参道近くにこじんまりとした寺がある。慶長十一年(1606)に創建されたこの寺は「牡丹餅寺」と呼ばれ、寺が創建される前、源頼朝が「千羽鶴の放生会」を観覧するためこの地に桟敷を設けたとされる。 また、立正安国論を説いた日蓮が幕府から反感を買い処刑されることになった際、この地に住した比企能員室の妹とされる「桟敷の尼」が胡麻入りの牡丹餅を日蓮に進上し、その桟敷の尼の法号が常栄であったため、寺の創建の際に寺号として名付けたという。
塚本柳斎の歌碑「これやこの 法難の祖師に 萩のもち ささげし尼が すみしところ」
欧州を離れるときがやってきた。長いようで短い旅であった。機内ではイタリアワインのテイスティングがあり、用意してあるワインの種類全てを口にした。気圧が高いため、酔いも回りが早く、また量も多かったため、就寝の際に息苦しく感じた。約12時間のフライトを経て成田に着陸してから丁度20分間もの間、場内を紆余曲折し駐機場に到着した。税関を抜け荷物を宅配に預け、余ったユーロ紙幣を円に戻し、日本の生活に戻った。
機内食
京成線
(臨済宗亀谷山寿福金剛禅寺 神奈川県鎌倉市扇ガ谷 国指定史跡)
正治二年(1200)北条政子によって創建された。初代住職は栄西であったという。付近には「やぐら」と呼ばれる崖をくり貫いた墓地が点在する。
(愛知県岡崎市六供町甲越 市指定史跡 1990年5月26日再踏査)
1979年以来、何度となく訪れている4世紀末から5世紀初頭の前期古墳であり、初めて私が埴輪に触れた古墳でもある。甲山古墳は直径60m,高さ8mの1号墳と南隣の宅地及び公園となっている2号墳からなるが、2号墳の位置関係と形状、規模からみて、一つの前方後円墳(前方部の小さい帆立貝式)とみるのが妥当ではないだろうか。1号墳とされる墳頂には1961年に「たつきの塔」と呼ばれる展望台が建ち、東側から南側にかけては墓地及び公園となっている。外部施設に葺石と土師質埴輪を持ち、内部施設は戦時中に防空壕が掘られた際に粘土が確認されており、前期後半の古墳の特徴でもある粘土郭の木棺埋葬であったと推定される。
(日蓮宗長興山妙本寺 神奈川県鎌倉市大町)
文応元年(1260)鎌倉幕府御家人である比企家から出家した比企能本(よしもと)によって、父の比企能員(よしかず)の屋敷跡に法華堂を開創したのが始まりという。その後日蓮によって長興山妙本寺と名付けられた。
山門脇の比企能員屋敷址碑