(福岡県柳川市三橋町高畑 旧県社 2009年3月10日)
柳川藩主立花氏祖、戸次(立花)道雪に天明三年(1783)梅岳霊神の神号が贈神され、柳川城三の丸長久寺に梅岳宮が建立されたのが三柱神社の起源の一つである。また、道雪の養嗣子の藩祖立花宗茂と、道雪の娘で宗茂の妻である誾千代(ぎんちよ)を祀った唯一宮が建立された。文政三年(1820)宗茂に松陰霊神、誾千代に瑞玉霊神が贈神され、文政六年(1823)梅岳宮に唯一宮が合祀されて三柱神社となり、文政九年(1826)柳川城の鬼門の方角である現在地に遷座された。
(千葉県印旛郡酒々井町飯積)
飯積(いいづみ)は泉が由来とされ、湧き水が多いこの地を表す地名である。また、地区内の伊豆神社や和泉山泉福寺、南隣の墨(すみ)地区もそれぞれ相関関係があると推定できる。往古から農地が大半を占めるが、昭和46年(1971)東関東自動車道の部分開通により開発が始まり、平成25年(2013)には面積197,200m2のアウトレット商業施設が開業した。
(岐阜市長良 2008年12月31日)
寛正年間(1460-6)美濃守護代斎藤利藤が北野天満宮より祭神である菅原道真を勧請したのが始まりという。天正十六年(1588)岐阜城主池田輝政が社壇石垣を造営している。江戸時代は尾張藩、高須藩に崇敬された。現存する本殿は享和元年(1801)、拝殿は嘉永五年(1852)に造営されたものである。
(愛知県岡崎市本宿町一里山 2008年12月15日)
大正15年(1926)愛知電気鉄道開通に伴い設置された駅である。昭和9年(1934)近隣の蒲郡ホテル開業と連絡道路である鉢地坂トンネル(新箱根)の開通に合わせ、塔屋付の駅舎に改修された。平成3年(1991)名鉄線と並行する国道1号線の拡幅に伴う駅の移動高架化によって駅舎は解体された。駅の移動及び高架化後、往時の三分の一の大きさで模型が造られ、駅前に設置された。
(はまのまち はまんまち 長崎市浜町 2008年12月10日)
浜町は寛文三年(1663)に埋め立てられるまで浜であったことに由来する。以降、長崎の商業中心地として栄え、高度成長期にはアーケードが設置された。アーケードは国道324号線となっており、朝以外は車両通行禁止となる。
(みなみしすい 千葉県印旛郡酒々井町馬橋)
大正3年(1914)に開設された総武線の駅。酒々井町の中心部から離れている。
(長崎市松山町 2008年12月10日)
昭和20年8月9日午前11時2分、B-29爆撃機により、長崎市松山町に原子爆弾が投下された。これにより、死者7万3884人、負傷者7万4909人の被害者を出した。原爆落下中心地は爆心地公園となり、50年を経た平成7年、原爆投下中心地地区祈りのゾーンの整備事業を行い、記念として建立された。
(東京都品川区上大崎)
三日月藩(兵庫県佐用郡)一万五千石の大名森家は慶長五年(1600)忠政のとき信濃川中島十三万七千五百石として立藩し、慶長八年(1603)美作津山に十八万六千五百石で移封した。弟には織田信長近習の森蘭丸がある。この頃、大崎の地に抱屋敷を構えたという。延宝四年(1676)忠政の子で長継の五男長俊は父から一万五千石を分け与えられ、後に津山新田藩を立藩した。然し、元禄十年(1697)津山森家が改易となり、播磨国内揖西郡、佐用郡、宍粟郡のみで一万五千石の三日月藩となり、長俊は初代藩主となった。このとき、大崎の抱屋敷は上屋敷となり、廃藩まで続いた。故にこの辺りを森ヶ崎と呼ぶ。
(長崎市平野町 2008年12月10日)
平和公園内長崎国際文化会館別館跡地に、昭和56年(1981)開館した施設である。地下1階、1階は開館当初、長崎市博物館であったが、平成17年(2005)長崎歴史文化博物館設置に伴い市内立山に移転し、平成18年(2006)上銭屋町から長崎市歴史民俗資料館が地下1階に移転。1階は平成19年(2007)野口彌太郎記念美術館が旧長崎英国領事館から移転した。3,4階は平和会館ホールとなっている。
(川崎市中原区小杉町)
武蔵小杉駅東急南口のこの地は、「小杉町3丁目東地区再開発」によって、平成28年(2016)、東急スクエア及びこすぎコアパークとイトーヨーカドー武蔵小杉駅前店の間にあった集合住宅や商業店舗、中原図書館、小杉こども文化センター等が取り壊された。そして、跡地に築造されたSRC造39階建ビル等3棟に住居やテナントを集約し、面積550m2の広場サウスパークが設けられた。