flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

神坂

2014-09-30 00:00:00 | 街道・宿場町

(信濃坂 岐阜県中津川市神坂)
 

(関連記事:落合宿 落合山中 落合石畳 十曲峠新茶屋 馬籠荒町 馬籠宿

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

りんくうタウン

2014-09-29 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(大阪府泉佐野市 2004年10月2日)
 南海線ラピートに乗り、かつては大阪副都心構想のあった、関西空港島対岸の「臨空地区」を訪れた。りんくうタウン駅近くには、1994年に完成したりんくうゲートタワー(56階建、256m)があって、その名の通り空港に至るりんくうゲートブリッジを挟む形でツインタワーになる計画であった。然し多額の費用をかけ、その物体が現実に存在しても、虚無を感じるのは私だけではないだろう。
   
     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧中島襄吉住宅

2014-09-28 00:00:00 | 木のたてもの

(猫の家 森鴎外・夏目漱石住宅 愛知県犬山市明治村 旧所在地:東京都文京区千駄木町)
 明治23年(1890)医学士中島襄吉の住宅として築造された、木造平屋建 、130m2の建物である。実業家中島利吉が子息襄吉のために建替えたものであるが、殆ど使われなかったため鴎外に貸している。明治27年(1894)斎藤家が買い取り、明治36年から39年にかけて、住人の留学中に漱石が借り、「我輩は猫である」の連載を始めている。斎藤家は後に日本医大に売却。昭和46年(1971)明治村に移築された。
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東笠松

2014-09-27 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-

(岐阜県羽島郡笠松町 2004年11月28日)
 自動改札導入を踏まえ、乗降客が一日100人未満の駅が姿を消す。再来月で70年の歴史に幕を閉じる、木曽川鉄橋たもとの東笠松駅に降り立った。駅の下には、ここも来場者減少ということで、廃止が検討されている笠松競馬場がある。
 
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塩尻駅

2014-09-26 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-

(長野県塩尻市)
 昭和57年(1982)塩尻駅は大規模な改革を行った。それまで中央東線と中央西線は旅客列車が直通できる構造であったが、需要の高い中央東線→篠ノ井線、中央西線→篠ノ井線への直通に便利な構造へとシフトし、北東側へ600m移転した。

 辰野支線用123系「ミニエコー」 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法起寺

2014-09-25 00:00:00 | ほとけのいおり

(奈良県生駒郡斑鳩町岡本 世界文化遺産 国指定史跡)
 推古天皇三十年(622)聖徳太子の岡本宮の跡地に、太子の遺言により子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりという。天武天皇十四年(685)恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲三年(706)現存する三重塔の露盤を作ったとされる。平安京遷都後は法隆寺傘下となり、鎌倉時代には伽藍を修復するも衰退し、三重塔のみになったという。延宝六年(1678)真政圓忍は、三重塔を修復し、元禄七年(1964)講堂が再建されている。
  
 講堂
 聖天堂 文久三年 金堂跡に建立
    
 複製心礎

(関連記事:菩薩池 斑鳩岡本

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「巌窟ホテル」

2014-09-24 00:00:00 | STRUCTURE-構造物残影-

(埼玉県比企郡吉見町南吉見)
 吉見百穴岩室観音の間の岩肌に、正確に開けられた窓のようなものがある。明治37年(1904)高橋峯吉という人物が、醸造施設として凝灰岩(ぎょうかいがん)の山肌を二十一年間にわたって、くり貫いたものである。内部構造はホテルの個室のようにパーティションとなっているが、第三者が高橋氏の行動を見て、(岩窟を)「掘ってる」と言ったところから、巌窟ホテルと呼ばれるようになったのだという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上伊那 飯島

2014-09-23 00:00:00 | 漂い紀行

(長野県上伊那郡飯島町)
 南駒ヶ岳の麓、天竜川に注ぐ、与田切川等の谷合を持つ起伏のある地である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真光寺 一遍智真墓所

2014-09-22 00:00:00 | 孝霊天皇流族関係記事

(神戸市兵庫区松原通 2006年12月15日)
 一遍智真が諸国遊行の後、正応二年(1289)八月二十三日、五十一歳で入寂した観音堂、後の時宗西月山真光寺がある。空襲や震災により堂宇は被害を受け、当時からの面影は少ない。私はここで、暫しの瞑想に耽った。一遍こと河野通尚は幼少の頃母と死別し、父通広の仏縁により出家した。然し二十五歳のときに父通広が亡くなり、家督を継ぐため還俗した。その後、遊行を開始した一遍は、善光寺、四天王寺、高野山、熊野を訪れ、三十八歳のとき九州を遊行、四十二歳で陸奥江刺にある祖父河野通信の墓を参り、四十四歳のとき鎌倉入りを拒絶されている。そして遊行によって世間を知った一遍は、最後に経典を焼き捨て、信仰が数や形ではないと悟り、五十一歳でこの世を去った。これら境遇、時系列が酷似する私は、感慨無量他ならないのである。
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧西郷從道邸

2014-09-21 00:00:00 | 木のたてもの

(愛知県犬山市明治村 旧所在地:東京都目黒区上目黒 重要文化財)
 海軍大臣・政治家であった西郷從道の住宅であり、明治10年代(1877-1886)フランス人建築家レスカスによって設計された、木造2階建、延床面積505m2の洋館である。
   
 瀬戸焼磁製染付暖炉 左:宮島 上:天橋立 右:松島
    
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徹明町

2014-09-20 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-

(岐阜市徹明通 2004年10月20日)
 見慣れたこの光景も、過去のものになろうとしている。

(関連記事:路電岐阜 美濃町線 新岐阜徹明門」)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保命水

2014-09-19 00:00:00 | 水のほとり

(長野県上田市柳町 2007年11月29日)
 善光寺街道沿いには「保命水」と呼ばれる清水がある。古くから大切な存在である旨を、自治会により紹介されていた。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和郡山 平成二十六年

2014-09-18 00:00:00 | 街道・宿場町

(下街道 奈良県大和郡山市)
 三十一年振りに大和郡山に降り立つ。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵 松山城

2014-09-17 00:00:00 | 城郭・城下町

(埼玉県比企郡吉見町南吉見 国指定史跡)
 市野川を天然の堀とし、武蔵国南方を見渡せる比企丘陵縁端に築かれた平山城である。応永六年(1399)上杉氏臣上田友直によって築城され、その後、天文六年(1537)小田原城を出陣した北条氏綱は、上杉朝定の川越城を攻略し、この松山城も攻め入ったものの撃退されている。その際、ときの城主難波田憲重が北条氏勢の山中主膳との間で、風流合戦と呼ばれる問答が行われ、「あしからじ よかれとてこそ 戦はめ なにか難波田の 浦崩れ行く」「君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこえなん」と詠んだとされる。川越城を失った上杉朝定は松山城に入城し城郭を拡大する。然し、天文十四年(1544)川越夜戦で朝定と難波田が討死すると、北条氏綱の子氏康ものとなったが、間もなく難波田憲重の婿であった上杉氏臣太田資正が奪回し、縁戚である上田朝直が城代になるものの、朝直は北条氏に寝返り再び北条氏のものになった。永禄四年(1561)には上杉謙信が奪取して太田資正を城代にするが、永禄六年(1563)北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃により、三度北条氏のものとなった。天正十八年(1590)になると、豊臣秀吉の小田原征伐により、ときの城主上田憲定は小田原城に籠城し、北条氏臣下二千三百名が松山城に籠城、前田利家上杉景勝勢に包囲され松山城は落城した。そして、徳川家康が関東移封すると、松平家広が入城。慶長六年(1601)松平忠頼のとき遠江浜松に移封となり松山城は廃城となった。
      ササ郭
 主郭
 主郭土塁
  次郭
 春日郭
  馬出
 春日郭三郭間堀
 三郭
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いなっせ

2014-09-16 00:00:00 | 学びのやかた

(伊那市駅前ビル伊那市生涯学習センター 長野県伊那市荒井)
 伊那市駅前の再開発によって建設された、SRC造8階建、(駐車場棟上層S造、低層SRC造、センター棟連絡部RC造)延床面積18,242m2,建設費42億5千万円の複合ビルである。内訳は、商業施設、金融機関の他、展示ギャラリー、学習室、会議室、研修室、料理実習室、創作室、ホール、スタジオ、レッスン室等があるが、図書館が施設内になく離れた場所にあり、利便性、合理性に欠けると言わざるを得ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする