(川崎市宮前区宮崎)
東急田園都市線宮崎台駅高架下にある展示施設である。この日は、リニューアルのため一時休館していたものが再オープンして間もないときに訪れた。元々は昭和57年(1982)東京急行電鉄創立60周年を記念して、高津駅高架下に開館したのが始まりの施設であり、平成14年、二子玉川-溝の口間の複々線工事に伴って一旦閉館し、現在地に移転開館した。
玉川線デハ200-204 1955年
三菱ふそうB623B 東急コーチ1号車 1970年
日野RB10
モハ510-510 1931年
YS-11-109 JA8662「なると」1966年
(愛知県宝飯郡一宮町 1993年9月9日)
台風14号が通過し、普段より3m水位が上昇した豊川(とよがわ)。そのため、日常は露出している部分も水没していた。また、いつもと違う川を眺める人を多く見かけた。賀茂橋の上流側に歩道橋を造る計画があり、豊川市側の第一橋脚のみ完成しているが、賀茂橋本体と基礎が独立し連続していないため、空間の土砂が水流によって抉られるのを防ぐ鉄板が設けられていて、それを心配そうに見る工事業者の姿があった。小河川である帯川は、流路延長、流域面積、支流数共規模が小さいので早く水が引き、落ち着きを取り戻していた。
東名高速豊川橋付近
帯川
(東京都千代田区外神田・神田須田町)
雑然と林立する現代建築の傍らに、統一感のある近代建築が視界に入る。神田川に架かる万世橋は、昭和5年(1930)に改築されたRC造石張りの橋であり、すぐ横には昌平橋駅に代わって明治45年(1912)に中央線の起点として開業した万世橋駅が、昭和18年(1943)まで存在した。途中、関東大震災による駅舎倒壊、中央線の延伸、鉄道博物館の移転併設等を経て、第二次世界大戦中に駅は休止された。その後は鉄道博物館(後の交通博物館)として駅の隣接地で平成18年まで運営され、交通博物館の跡地はJR万世橋ビルとして、万世橋駅跡地は煉瓦造の高架を利用して、商業施設 mAAch ecute 神田万世橋として整備された。
(関連記事:万世橋平成二十二年 秋葉原 外神田)
(愛知県宝飯郡一宮町篠田字割塚 1993年8月6日)
篠田の小字になっている割塚(わりづか)を訪れる。割塚は直径8m,高さ0.9m,楕円形をしていて、中世の何らかの塚と考えられているが、詳細は分からない。現在竹林となっている割塚の地主が塚の西側のお宅であることが分かり、その地主の方に詳細を伺った。地主の方は「うちは分家で地所を分けて貰うとき、あの塚は祟りがあるから手を付けないようにと言われ、未だにそのままにしてある。気分的なものもあるし」ということであった。割塚の隣字である古井戸に、かつて長篠の戦いで敗れた武士とされる五輪塔が発見され、触ると祟りがあるという場所があったが(現在は四ツ家墓所に移転)、この割塚も同様の性格の塚かもしれない。また、篠田は近世から近代にかけて、かわらけ(土師系土器の皿)を生産する時期があった。「わりづか」は、その土器を処分する意味合いがあるのかもしれない。
(東京都世田谷区野毛 旧村社) 国分寺崖線(多摩川左岸河岸段丘)の斜面に建つ真言宗影光山善養寺の隣には六所神社がある。元和年間(1615-23)多摩川洪水のとき、府中の方から祠が流れてきたため、当時六所明神と呼ばれていた大国魂神社に肖り、流れ着いた岸の上に六所明神を創建した。明治31年(1898)現在地である旧八幡神社地に遷座、村内小社を合祀し、六所神社と改められた。旧社地は住宅地となったが、前の坂は明神坂と呼び、坂下の丸子川に架かる橋は明神橋、祠が流れ着いた場所はその後河跡湖となり明神池と呼ばれた。高度成長時代まで池は存在したが、都市化により埋め立てられた。その後、土地を鎮めるために池跡の一角に龍神が祀られている。
明神坂
明神池前バス停
明神池及び多摩川流路跡の窪み
明神池跡に祀られた龍神社
(愛知県宝飯郡音羽町長沢字西切山 1993年8月4日)
三河湾に注ぐ音羽川の源流の一つである切山川沿いに清水がある。昔、聖徳太子が馬で宮路越えをしていた際に、夏の暑さで喉が渇き水を欲した。伴の者が見付けた枡のような井戸の湧き水を口にした太子は、その冷たい水に感動して、「小渡井枡井戸(こどいのますいど)」と名付けたという伝説がある。また、付近には鎌倉時代の「西切山遺跡」がある。
「霊泉枡乃井」
(愛知県宝飯郡音羽町長沢字午新 町指定文化財 1993年8月4日再訪)
松平氏長沢城の出曲輪である観音堂城跡には、正安二年(1300)記銘の自然石の三尊種子(しゅじ:真言)板碑(中世の石製卒塔婆)がある。愛知県内最古の板碑であり、高さ1.9mの板碑には「वं(ヴァ):金剛界大日如来」「भः(バハ):釈迦如来」「आः(アーハ):胎蔵界大日如来」を表す梵字が刻まれている。
(西岡10号墳 東京都世田谷区等々力 都指定史跡)
等々力渓谷の程近く、目黒通りに面する国分寺崖線(多摩川左岸河岸段丘)縁端部に位置する古墳である。野毛・田園調布(荏原台)古墳群の一つであり、帆立貝式前方後円墳で全長57m,高さ7m,葺石、埴輪、周溝を持つ。大正6年(1917)後円部の墳頂から七鈴鏡が発見され、昭和25年(1950)学習院大学による発掘調査の際には、粘土槨の中から鉄製短甲や鉄剣、鉄鏃が出土している。当初は円墳とみられていたが、平成4年、7年の確認調査によって前方部の小さい帆立貝式前方後円墳と確定した。因みに御岳山(みたけやま)古墳の名の由来は、墳頂に御嶽社の祠があったためであるが、現在は八幡山古墳に移されている。
多摩川等々力橋(計画)に繋がる予定の目黒通り
(関連記事:野毛大塚古墳 鵜木大塚古墳 田園調布古墳群 浅間神社古墳 狐塚古墳)
(愛知県豊橋市牛川町乗小路 1993年7月23日)
昭和32年(1957)牛川石灰鉱山採石場で、10万年以上前と推定される更新世層から骨の一部が発見された。長さ96㎜,人間の左上腕骨の一部で身長134.8cmの女性だと推定(当時)された。翌々年にも骨の一部が発見され、左足骨(大腿骨)の破片で、身長149.2cm,男性の骨と推定(当時)されている。
(愛知県豊橋市王ヶ崎町王郷 1993年7月15日)
一昨年の発掘調査後、古墳跡に石碑が建てられたが、墳丘の痕跡は僅かながら残っており、羨道(せんどう:石室への通路)跡に建てられた石碑と説明板の土台に使われている石材も、一部に石室石材が利用されている。調査によって長さ7.7m,幅2mの横穴式石室と飾太刀、装身具等が検出されたが、既に石室上部及び墳丘の封土の大半が失われていたため、古墳自体の規模は不明である。出土品や石室の規模、地名から想像し、6世紀末頃の権力者の墳墓であることが推定できる。また、付近は王ヶ崎遺跡(貝塚)でもあるため、縄文式土器や中世陶器も散見していた。
(東京都世田谷区中町・等々力・深沢)
玉川警察署付近には深沢城、その北側の都立園芸高校付近には支城の役割とされる兎々呂城(とどろき)、更に天祖神社付近にも古塁(支城)が存在した。元々この地には吉良氏世田谷城の支城があったとされ、それ以前の鎌倉時代には土岐氏の城があったという。永禄七年(1564)国府台合戦(千葉県松戸市)の功により、この地を与えられた北条氏臣南條重長はこの城に入った。その頃、この地(深沢)に存在した文明二年(1470)世田谷城主吉良成高創建の真言宗致航山感応院満願寺を現在地(等々力・目黒通り沿い)に移転している。天正十八年(1590)北条氏が滅亡すると、南條氏は武門を捨て谷岡氏と名を変えこの地の名主となった。その末裔が城跡の付近を発掘したところ、地下1mに長さ約20m,幅1.2mの玉石を敷き詰めた道を発見したという。