(川崎市高津区諏訪)
多摩川右岸の沖積地に位置する、直径19.5m,高さ3.8mの円墳である。墳頂には宝暦年間(1751-64)小黒傳八が造立した富士浅間社の石祠があり、かつては多摩川氾濫時に避難所とされたという。
(東京都豊島区南池袋)
夏目金之助は慶応三年(1867)江戸牛込の名主夏目直克の五男として生まれた。第一高等中学校時代に正岡子規(常規)と出会い、子規の号の一つ漱石を譲り受けた。帝国大学を卒業後、高等師範学校の英語教師を経て、松山の愛媛県尋常中学校の英語教師となった。その後、イギリス留学、朝日新聞社を経て、小説家として数々の作品を残した。大正5年(1914)四十九歳没。
(東京都豊島区南池袋)
ジョン万次郎は、文政十年(1827)土佐国幡多郡中ノ浜村(高知県土佐清水市中浜)の漁師の家に生まれた。天保十二年(1841)十四歳のとき、出漁した足摺岬沖で遭難して無人島の伊豆鳥島に漂着した。143日後に島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に万次郎ら5名は救助され、万次郎以外の4名はホノルルで下船したが、万次郎はアメリカに渡った。このとき、万次郎は他の船員からジョン・マンと呼ばれ、天保十四年(1843)船長のホイットフィールドに連れられて、船長の出身地であるマサチューセッツ州フェアヘーブンで暮らすことになった。そこでは学校に通い、航海術や造船技術、英語などを学んだ。嘉永四年(1851)金の採掘工等を経て、上海に向かうハワイの商船サラ・ボイド号で琉球に帰国。翌年幕府に召還され、アメリカでの見聞を尋問される。安政七年(1860)日米修好通商条約批准のため、遣米使節団に随行。慶応二年(1866)開成所(後の東京大学)の教授に就任。明治3年(1870)蝦夷地開拓御用掛に任命され、北海道開拓に従事。明治31年(1898)東京で没した。
(東京都文京区大塚)
天保九年(1838)萩藩士山縣有稔(やまがたありとし)次男として生まれた有朋は、松下村塾で学び、高杉晋作らと奇兵隊を率いて倒幕運動に参加した。明治新政府より欧州視察の命を受け訪欧し、帰国後は廃藩置県、地方自治制度、近代官僚制度構築等に関わった。第3代、第9代内閣総理大臣、初代参謀本部長、初代内務大臣、枢密院議長を歴任した。大正11年(1922)八十三歳没。
(東京都文京区大塚)
天保八年(1837)越後国新発田の名主大倉千之助の三男として生まれた。安政元年(1854)江戸に出て鰹節商へ丁稚奉公の後乾物商大倉屋を起こした。その後黒船をきっかけに鉄砲商を起こし、戊辰戦争の際に銃砲店で成功し、新政府軍の御用商人として財を成した。明治6年(1873)貿易商として大倉組商会(1946-大成建設)を設立し、外国貿易用達事業により政商としての基礎を築いた。明治7年台湾出兵、明治10年西南戦争、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争において軍需品用達商人として巨利を得た。帝国劇場、帝国ホテル、大倉商業学校(1949-東京経済大学)、大倉集古館等を設立。昭和3年(1927)九十歳没。
(東京都文京区大塚)
天保八年(1837)三條實萬の三男として生まれる。権中納言、議奏、攘夷勅使、国事御用掛等を務め、尊皇攘夷派公家の中心的存在であったが、文久三年(1863)尊皇攘夷派の京都追放を目的とした八月十八日の政変が起こり、七卿落ちの一人として長州に向かった。王政復古後、新政府の議定、副総裁、右大臣、修史局総裁などを歴任し、明治4年(1871)太政大臣に就任した。内閣制度創設後は内大臣となり、明治22年(1889)黒田内閣総辞職後、一時臨時首相を兼任している。明治24年(1891)五十三歳没。
(東京都文京区大塚)
天保九年(1838)佐賀藩士大隈信保の嫡男として出生し、藩校弘道館在籍中は、儒学教育に疑問を持ち藩校改革を訴えた。藩の蘭学寮で西洋の学問を学び、元治元年(1864)長崎で宣教師グイド・フルベッキから英語やアメリカ憲法を学んだ。翌年、そのフルベッキを招いて英学塾致遠館を開設した。明治時代となり、外国事務局判事、大蔵省次官に就き、明治14年(1881)イギリス議院内閣制を手本とする憲法制定と議会開設を明治政府に求めたが、急進的なものとして岩倉具視や伊藤博文らと対立し、重信は官僚を辞職した。然し、翌年にはイギリス議会政治をモデルとした立憲改進党を作り、その後総理大臣となって、日本初の政党内閣を誕生させた。そして同年、東京専門学校(1902-早稲田大学)を開設した。大正11年(1922)八十三歳没。
(東京都文京区大塚 国指定史跡)
水戸藩の儒師であった人見ト幽軒の屋敷であったこの地は、寛文十年(1670)ト幽軒が没し、この地に葬られたのが儒葬(喪に服する期間が三年)墓地の始まりとされる。敷地内には岡田寒泉、古賀精里、柴野栗山及び尾藤二洲の寛政の三博士の他、木下順庵、室鳩巣ら儒学者とその家族四十六基の墓がある。
(浄土宗清水山松林院深光寺 東京都文京区小日向)
寛永十六年(1639)清水庵として開創され、境内には南総里見八犬伝作者の曲亭馬琴(滝沢興邦1767-1848)と妻百、子の興継の妻、土岐村路(ときむらみち1806-1858)の墓がある。また隣接して寛政元年(1789)に造立された、聖徳太子御作 厄除観世音菩薩文言の石幢があり、茗荷坂に面した斜面には、多くの墓標石仏があって、更に本堂前には切支丹燈籠がある。