いつも通勤途中で相手をしてくれる白い猫は、今日は終始眠り猫であった。
(愛知県新城市富永字鎌屋敷 市指定史跡 1982年9月再踏)
飯田線の車窓からポツンと見える土盛りと祠がある。これは来迎松城の土塁の一部である。東の大宮川側には堀の名残があり、飯田線の南側にある理髪店が建てられる前までは、そこに堀が存在したという。
三河国二葉松(みかわのくにふたばのまつ:江戸中期の地誌)には、設楽越中守守通根城とし、正和元年(1312)に振草庄設楽郷(東栄町中設楽)から設楽庄設楽村(新城市富永)に移住し、周辺二十六村を領したのが始まりとされる。城主は隣接する構屋敷(かまえやしき)に住し、この城は家臣の夏目信久、清宗が守った。
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(京都市中京区油小路)
油小路は、南北に伸びる平安京時代からの道路である。幕末には油小路事件(新選組と御陵衛士の抗争)が起きている。また付近には、元治元年(1864)の大火後に再建された、呉服商の野口家住宅等がある。
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(北海道函館市末広町 市景観形成指定建築物)
昭和7年(1932)に築造された、RC造2階建、ルネッサンス様式のオーダー(列柱)を持つ銀行建築である。昭和23年(1948)安田財閥解体後は富士銀行となり、昭和43年(1968)まで使用された。その後は外国人向けホテルとして利用され、昭和63年(1988)からは一般向けホテルに生まれ変わったが、平成21年に廃業し現在は閉鎖されている。
(沖縄県石垣市新川)
咸豊2年(1852)中国の廈門(アモイ)からカリフォルニアへ航行中のアメリカの苦力(クーリー:アジア人単純労働者)の乗る貿易船、ロバート・バウン号内で、船長の苦力虐待を契機に暴動が発生した。そして、石垣島沖合で座礁し、380人の中国の福州出身苦力が石垣島に上陸して収容された。 その後、離礁したバウン号の報告を受けてイギリス船2隻が石垣島に来航し、苦力のいる収容所を砲撃した後、武装した兵士が上陸して逃走した苦力を射殺、捕縛した。捕縛を免れた中国人300人は琉球王国に保護されたが、翌年中国に送還された172名以外は病死、自殺、行方不明となった。これを弔った三百唐人墓と呼ばれる石積みの墓が築かれたが、まだアメリカ統治下であった昭和46年(1971)これら墓を纏めるためにこの唐人墓を造り、改葬された。
(唐人墓から観音崎方面を望む)
(愛媛県上浮穴郡久万高原町)
松山平野から標高720mの御坂峠を越えると久万高原に差し掛かる。「久万:くま」は山あいの窪みを意味するとされ、周囲を見渡すと所々岩が露出した山が視野に入る。
更に進み、旧美川村の七鳥に向かった。
(北海道函館市末広町)
豊川埠頭の側には、煉瓦造りの倉庫が立ち並ぶ。函館で商船会社を営んでいた渡邉熊四郎が、前年の函館大火を踏まえて明治40年(1907)煉瓦造りの倉庫を築造した。昭和末期頃から倉庫需要が減少し始めたため、一部の倉庫を商業施設として改造し、現在に至っている。