(東京都文京区春日・後楽)
水戸徳川家上屋敷小石川後楽園があったため、戦前に後楽園球場、戦後に後楽園遊園地及び駅名と、後楽園が施設名に当てられた。昭和末期以降は東京ドームの知名度が高くなり、後楽園の呼称は少なくなっている。
(東京都文京区本郷)
本郷の谷地を通る菊坂、そして一段下の菊坂下道。この辺りには小説家樋口一葉の旧居があった。また、菊坂から、馬具の鐙(あぶみ)の曲線に似ていることから名付けられたともされる鐙坂を上がると、途中に言語学者金田一京助の旧居があり、上がり切った場所は右京山と呼ばれる高崎藩大河内松平家中屋敷があった本郷台地である。
菊坂から菊坂下道へ下る階段
(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 世界文化遺産 2004年8月10日))
青岸渡寺に隣接する神社である。明治維新の神仏判然令以前は、神仏習合により那智山の神殿、仏堂、及び神体とされる那智滝は同一とみなされていた。故に青岸渡寺と同様の経緯を持つ。
(天台宗那智山青岸渡寺 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 世界文化遺産 2004年8月10日)
寺伝では仁徳天皇年間(313-98)天竺から渡来した僧裸形が、那智滝の滝壺から如意輪観音像を拾い上げ、それを祀ったのが始まりという。その後、推古天皇の勅願寺となり、天正十八年(1590)には豊臣秀吉が現存する本堂を建立している。
国重文 宝篋印塔 元亨二年(1322)
(千葉県浦安市)
昭和56年(1981)まで浦安町であったこのまちは、東京ディズニーランド開園や京葉線開通でベッドタウンになったことで、約17万人まで人口が増加した。元来浦安には鉄道が通っていなかったが、昭和44年(1969)営団地下鉄東西線の浦安駅開業により、中心市街地が新たに形成された。
(東京都杉並区阿佐谷北・阿佐谷南)
鎌倉街道や青梅街道が通る阿佐ヶ谷は、神田川支流桃園川が形成した地形を表す浅ヶ谷からきているとされる。その桃園川も現在は暗渠となり、一部が緑道となっているものの、川の面影はない。中世には江戸氏の一族が付近を統治し阿佐谷氏を名乗っているが、阿佐ヶ谷が賑わい始めたのは大正11年(1922)阿佐ヶ谷駅が開業して以降であり、それまでは小さな農村集落であった。昭和初期には多くの文人が移り住み、近隣地区とは違った雰囲気を生み出している。
(東京都品川区東品川)
品川宿の東方、江戸時代末期に幕府第四台場が築造された周辺を、関東大震災後から戦前にかけて埋め立てられた地である。元々は干潟で、牛頭天王の面が拾い上げられたため天王洲と呼ばれるようになったという。埋め立て後は運河沿いの倉庫街として機能した地であったが、昭和末期頃から再開発が始まり、「天王洲アイル=aisle:島」と名付けられて、住居や商業施設が進出するようになった。
(愛媛県今治市 2004年5月5日)
開城・開町四百年を迎えた縁の地。イベントとしては然程無く、逆に地場産業の経済力が衰退しているためか、街並みは後退している様に見受けられた。
然しながら、この城だけは変わらず象徴し続けていた。唯一もの救いである。