心斎橋から長堀鶴見緑地線に乗り、蒲生四丁目で降りる。周辺は大坂冬の陣、今福・鴫野の戦いが行われた場所であり、下町要素と高層住宅が混在している地区でもある。
国道1号線
(愛知県豊橋市北島町)
久し振りにこの駅を降りてみる。私が子どもの頃は駅員がいたが、今は無人駅である。そして、飯田線の列車の半分は停車しない駅となった。以前は隣接する貨物駅に多くの貨車の出入りあったが、今は陸上輸送となり、同じ場所でトレーラーへの積み降ろしが行われている。(豊橋オフレールステーション)
東海道線、飯田線、名鉄線と一時間当り上下最大40本の列車が横切る、開かずの豊田踏切。近年まで有人踏切であったが、船町貨物駅休止により無人となった。豊橋駅付近約5kmで唯一の踏切である。
船町貨物駅休止により使われなくなり、横に向けてある信号機。
(沖縄県宮古島市)
沖縄本島から、昨年訪れた石垣島の中間に位置する宮古島へ向かった。那覇から初めてのSKY機で宮古島へ。FDA機と同様、作りsmileは無い。本州を離れるとき、気温は3度であったが、宮古島は25度の夏日であった。
市街地側にあった空港ビルが内陸側に移転し、ビルの前はガーデニングが如く鉢植えの花が置かれていた。 島内の交通アクセスは悪く、飛行機との接続配慮も無い。また、統一運賃ではないのに前払いで、路線図や運賃表も無いため、非常に戸惑う。更にはバス停に何も貼られていないところも多く、バス運行会社の大元であるタクシー利用を促すための作戦ともとれた。
沖縄は那覇の都心部を除き、全体的に商業としての愛想は、あまり無い。 宮古島の人々は過去の出来事の影響のためもあるのか、気候に反しどちらかというと閉鎖的に感じた。また、宮古の名の由来はミャーク(人の住む場所)であるという。
宮古まもる君
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(宮城県宮城郡松島町松島字町内 国宝 国指定重要文化財)
五大堂の背後には、天長五年(828)僧円仁によって延福寺として創建されたという瑞厳寺がある。北条時頼のとき臨済宗に改宗され、円福寺と改められた。弘安四年(1281)一遍智真も参詣し、「一遍上人絵伝」には基檀上に朱塗りの柱を持つ、瓦葺二階建、宋朝造りの堂宇が描かれている。その後衰退するが、伊達政宗によって再興され、瑞巌円福禅寺となっている。
江戸時代は両側に塔頭(たっちゅう)があったという参道
無数の島により津波が緩衝し、被害が抑えられた
鉄道殉職者忠魂碑
国宝 庫裡
平成大修理中の本堂
三聖堂 天和二年
(関連記事:瑞厳寺石窟 四寺廻廊:毛越寺 中尊寺 立石寺)
(愛知県岡崎市康生町)
乙川の堤防から川側に向かって張り出している部分がある。 これは、城米や城主米の積み下ろしが行われていた舟着き場の跡である。往時は乙川、矢作川を経て河口の平坂湊への舟運があった。「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と謡われたその場所である。
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(青森県弘前市下白銀町 国指定史跡)
本丸の北隣に位置するのが北の丸である。北の丸は内郭と外郭に分かれていて、外郭は四の丸ともいう。
本丸・北の郭を隔てる内堀に架かる鷹岡橋
花見する?カラス
武徳殿(旧演武場)明治44年竣工
子の櫓跡 明治39年焼失
北の丸(四の丸)西側の堀
(愛知県宝飯郡一宮町大木字山ノ奥 町指定史跡 1983年)
日吉原台地の縁端に位置する、8基からなる古墳群である。現存するのは1号墳で、他の7基は明治時代の開墾と、東名高速道路の築堤の採土により滅失した。1号墳は全長30mの前方後円墳で、外部施設として埴輪を持つ。出土する須恵質埴輪から、5世紀後半と推定される。埴輪片の中には、形象埴輪とみられるものもあり、他の古墳からはまわしを着けた人物埴輪(力士像)や武人、女人の埴輪も出土している。それら念仏塚古墳から出土した埴輪は、付近に住む子どもたちの遊び道具になっていたという。念仏塚の名の由来は、土地を所有する近隣福寿院の盆の施食が古墳の墳丘で行われるからとされている。近隣には、美佐々木(みささぎ)古墳(推定前方後円墳)、森月(もりげつ)古墳(2基)等がある。
(まぶに 沖縄県糸満市摩文仁)
祈念公園のあるところは、摩文仁という地区である。最も大きい山のあるところ「真大嶺:まふぃに」が訛ったという説があり、周辺には緑の山がみられる。道路沿いに集落がみられるが、沖縄戦の際に住民の半数が犠牲になった地であり、現在の光景を見ながら、それまでの人々の営みを想像した。
(宮城県宮城郡松島町松島字町内)
瑞巌寺の参道脇には、鎌倉時代から江戸時代にかけて彫られた石窟がある。その用途は僧侶の行場いわゆるやぐらと、石彫りの卒塔婆、遺骨の置場等である。
「法身窟」は瑞厳寺を中興した北条時頼と法身性西が出会った場所とされ、また、正安二年(1300)に夢窓疎石がここを訪れたという。
(大阪市中央区南船場)
我が家の親戚が魔法瓶製造をしていた大国町の家の親戚が、また同じく魔法瓶製造をしていた場所、長堀。亡くなった祖父の故郷、今治からこの親戚の家に身を寄せた父。父の青年時代の思い出が詰まったこの地を私は久し振りに歩いてみた。父の頃はまだ長堀川が流れていたのだろうが、今はコンクリートジャングルである。