flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

行く干支来る干支

2005-12-31 23:13:59 | 干支
 酉年も終り、戌年となる。
今年一年の憂いを一緒に持っていって頂き、来年は今年以上平和で幸福な一年を願う。

一月生まれの私にとって、節分までの生まれは、前年の干支で解釈する…というのがあるが、私は果たして酉なのか戌なのか、毎度悩むのである…。
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日和山

2005-12-31 22:28:59 | 漂い紀行
 鳥羽の港を眺望できる小さな山。
豪族が砦を構えたこの地には、日本最古と伝えられる方位石がある。
昭和天皇も訪れ、日本無線電話発祥之碑が建つこの山は、鳥羽の多面性を紹介する場所でもあった。
昭和49年に鳥羽駅が火災となり、駅から日和山に上るエレベーターがなくなってしまってからは、売店や茶店も無くなり、閑散となってしまったようである。

十七年の登り納めの山となった。
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終詣

2005-12-31 10:31:38 | 漂い紀行
 今年一年のお礼参りへの途中である。
年末になり、殆んど自宅にいない毎日。

只今、揖斐川を渡った。

 
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波止濱小島

2005-12-30 23:35:29 | 海道・みなと
 墓参の後、海峡の小さな島に立ち寄ってみることとした。
文字通り、小島とかいて、オシマ。
人口は約30数人、0.50k㎡の面積しかないが、以前訪れた隣りの来島に至っては、人口約30人、0.04k㎡しかない。
四国本土から泳いで渡れる程の距離であるが、老齢割合が7割という高齢者地域である。
造船のメッカ波止浜から、来島、小島、馬島で共同運営している渡船に乗り、上陸する。
小島は、海水浴と日露戦争の芸予要塞跡を観光としている。

 各地では豪雪が話題になる今日この頃ながら、この日のこの辺りは暖かく、日差しも強く感じ取れた。
また、しまなみ海道来島海峡大橋が真横に眺められ、小さな島ながら雄大な気持ちにもさせてくれた。
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準トンボ帰り

2005-12-29 23:20:52 | kourei-ki-日記-
 急遽、四国へ墓参に赴いた私。
それは墓に覆い被さった木々が夢に見えたからである。
案の定、その通りの光景が広がっていた。
松を主に、暗闇と化していた墓標。
鋸などで切り落とし、冬の陽が当たりだした石面を目にして、ようやく安心を取り戻した。

墓のある山からは、愛媛の田園と瀬戸内が望められる。
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正法寺地蔵

2005-12-28 00:00:21 | 石のまもり
 以前紹介した、かいくらぶち近くにある石の仏さまである。路傍の直立した石地蔵とは違い、木造のように立体的である。この地蔵のある寺は無住で、寂れきってしまっているが、この地蔵さまは変わらず現世を見つめているようである。
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Yosami Transmitting station

2005-12-27 00:00:37 | STRUCTURE-構造物残影-

(愛知県刈谷市高須町)
 日本無線電信電話株式会社依佐美送信所として大正14年(1924)に竣工した、RC造り3階建て、本館886.5㎡,送信室1338.5㎡,他施設1079.2㎡と、高さ250mの空中線支持用鉄塔8本を持つ構造物である。
 昭和13年(1938)に国際電話株式会社と合併、国際電気通信株式会社となった。そして、昭和16年(1941)日本海軍対艦通信用施設となるが、終戦と共に解除された。
 第二次世界大戦後の昭和22年(1947)国際電気通信が解散し、昭和25年(1950)GHQにより米海軍使用施設となった。その後、東西冷戦解消により、1993年米国送信所閉鎖を決め、翌年日本返還された。
 1996年、鉄塔は撤去され、跡地には二本ずつ木が植えられた。更に2006年、全ての施設を解体撤去し、翌年、「フローラルガーデンよさみ」として、公園化された。
 (クリックすると大きくなります)
   
(保存 空中線支持用鉄塔)
(空中線支持用鉄塔跡)
 HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/yosami-transmitting-station.htm

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light up etc. 5

2005-12-26 00:00:55 | illuminated
(愛知県岡崎市江口)
 クリスマスも終わった。各地で繰り広げられたであろう様々な人間ドラマ。それらを演出したイルミネーション。賛否両論については、前項で書いてみたが、確実に例年より増加している煌き群。やや飽きた感は否めなくなってきているものの、今回のイルミは二軒別の家が相乗し合って成り立っているような作品。100km/h超えの電車からでも目に付くものとなっている。
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手力 那加

2005-12-25 00:30:43 | かみのやしろ
(2005年12月17日)(各務原市)
 この日は岐阜、長良雄総、鏡岩からこの地へと入った。
那加の地へは、数回訪れているが、手力雄神社へは訪れていなかった。
父が20年も前に、手力雄命の社のことを盛んに言っていたことを思い出す。
辺りは霊地と言えるであろう、こんな私でも感じるものがある。 

 祭神はアメノタヂカラオノカミで、天岩戸を開くとき活躍したと伝えられている神であり、そのとき岩戸が落下したところが戸隠山であるとされる。
 永禄十年(1567)織田信長は、この手力雄神社で稲葉山城攻めの祈願を行い、戦勝後は社領を寄進したという。
信長は以前、各務原へ攻め入り、寺々を焼き払ってこの社に迫ったことがあった。すると辺りに霧が立ち込め、体の自由が利かなくなり落馬した。それ以来、信長はこの社を崇敬するようになったという。
 現在も「弓掛桜」「的場桜」など、信長ゆかりの史跡が残る。
また、社殿裏手には古墳時代後期の手力雄神社古墳2基が開口している。
 
(関連記事:蔵前手力雄神社
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松阪

2005-12-24 23:05:36 | 街道・宿場町
(2005年12月10日)
 三井家発祥と本居宣長、そして和牛が名高い松阪を訪れた。
今まで訪れているようで、そうではなかったこの地。いつも通り過ぎるばかりであった。
今も昔も商業のまち。それは天正時代に蒲生氏郷が城を築き、参宮街道と商業を整えたことに始まる。
城跡は石垣だけながらも、城下町の面影も残り、商家や寺町も残る。
そして宿場町であったこの地は、和歌山街道の分岐点でもあった。
 先年、形象埴輪が検出された宝塚古墳が発掘され、紡績工場跡地を利用したギャラリーはにわ館も開設されていた。
 万遍なく歴史が息づく、中勢の地であった。
  本居宣長旧宅    
(関連記事:松阪城
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平井前橋梁

2005-12-23 21:10:59 | STRUCTURE-構造物残影-
 豊川治水対策、豊川放水路建設のために移転不用となった、東海道(飯田下り・名鉄上り)線橋梁である。(橋長12.10m)
それまでこの辺りには小河川が流れ、幾つかの鉄橋が架っていたが、放水路築造により、それを乗り越えるため鉄道標高が上がることになり、1964年新路線切り替え時に移転廃止された。
工事中、飯田上り(名鉄下り)の仮線として利用されたこともあり、完成後、橋桁は撤去されたが、橋脚と橋台はそのまま残り、新旧の歴史を残している。
 
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田峯 DAMINE

2005-12-22 21:14:30 | 城郭・城下町
 文明二年(1470)に田峯菅沼氏の本城が築かれた地、田峯。
田峯菅沼氏は長篠菅沼氏、作手奥平氏と並んで山家三方衆という中世奥三河において権力を握った武士達である。
麓の寒狭川から徒歩15分で城跡に辿り着く、と案内には書かれている。
途中、トンネル、階段、急な坂道があり、持ち前の健脚で上っていったが、25分かかった。
涼しい季節に汗をかきながら城跡へと来たが、城跡を管理する人に言うと、上りはとても 15分では上がれない!とのこと。
案内は何だったのだろう? 「歴史の里田峯城」として整備された城跡は、御殿、物見台、厩等が再現され、標高387m の眼下を見下ろす眺めも良い。
「今年は山の色付きも悪くて…」と、晩夏から晩秋を迎えたような気候だったようである。
帰りは得意?の“行者下り”で麓まで10分もかからなかった。
所要時間15分は、往復平均時間のことだったのか?
麓に下り、暑かった体も、山間の急激な気温低下により寒くなり、束の間の待ち時間も少々長く感じた。
やがて地形故の早い日没が帰路を追うように、我が住まいの下流方向へと進んだ。
    
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light up etc. 4

2005-12-21 19:55:55 | illuminated

 この時期ピークを迎える、様々なイルミネーション。綺麗、夢がある、楽しい…など、明るい言葉も聞かれる一方、眩しい、人集りができる、電力量が嵩む、省エネに反する、環境に影響する…。一部に賛否両論の声ある街角のイルミネーション。私はその人の趣味であり、また観る者に楽しさや感動を与えれば、それはそれで無駄はないと考える。むしろ、パチンコ屋のネオン、一人しか乗っていない通勤自動車、これらの方が無駄や環境に与える影響も大きい。大多数の“普通”の短所を見ずして、少数の“出る杭”を批評することは如何なものか?

 それにしても、街角の夜は華やかだ。

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信濃往還 田口

2005-12-21 12:03:17 | 街道・宿場町

(愛知県北設楽郡設楽町田口)
 津具 から設楽町の中心地、田口へ向かう。
ここは信濃往還(伊那街道)の宿場町でもあった。付近の歴史が集結した奥三河郷土館へ寄りたかったのだが、最近休館日が変更になったようで今日は休み。15年前に来たときも、やはり休館日ではなかったが、臨時休館であった。なかなか縁がない。仕方なく、敷地内の昭和43年に廃止された田口線の車両と、山の中に並べられた石仏公苑、白山神社に訪れてみた。見どころが減ってしまったが、木々の色づきは良好であった。
 残り時間を隣りの集落、田峯へと移動することにした。
   

(関連記事:福田寺武田信玄供養塔

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津具村

2005-12-20 00:03:40 | 国境いの村
 閉村して一ヶ月余りの奥三河津具村。
天竜川、矢作川、豊川水系の三つの水源を有するこの村は、人口1600人の過疎地域である。
先ず「役場前」の停留所で降りたが、役場の建物は、がらんどうとなっていた。
盆地の、どこからでも見える新しい建物が旧津具村役場新庁舎の、設楽町津具支所のようであった。そこへ向かって歩き始めた。
受付で案内資料等を頂き、その足で少し離れたところにある民俗資料館にも立ち寄った。
他の職員の人に携帯電話で聞きながら、資料館の鍵を開け、電源のコードを挿し込む。「私は初めて入りますねぇ…」と どうやら合併後、私が最初の来観者のようであった。
館内は、懐かしい展示方法、展示物が並ぶ。少しの時間ながらも、縄文時代から戦時中頃までの村の営みが垣間見えた。
津具の里を見下ろす、八十八ヶ所の弘法山に登り、その北方にある、縄文前期の竪穴住居が復元された鞍船遺跡にも訪れた。
最後に天竜川水系大入川の水に触れ、次の目的地、設楽町田口へ向かった。
  (2005/11/22)
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