(愛知県宝飯郡一宮町金沢字双子塚 1990年11月24日踏査)
吉祥山南麓、東山台地に古墳時代後期の三つの古墳が存在した。その内の一つ、京田古墳は、文献等には墳頂に庚申堂を祀り、庚申塚と呼ばれ、直径11m,高さ1.3mと記されているが、現地に出向いてみると、古墳の存在する筈の地点がゴルフ練習場となっており見当たらなかった。土地の古老に尋ねると、「10年程前に取り壊した」、「30年前に地主が古墳の中のものを取り出し、持っている」と語っていた。
双子塚古墳は、ビニールハウスに囲まれた2号墳から踏査した。地主が古墳の周囲を削り、正方形を成した状態となっていて、直径12m,高さ1.7mである。また、石材が露出し、ハウスの中で苗と石が同居していた。
1号墳は直径15m,高さ1.7を測り、墳頂に鏡石があって、その石を信仰対象物として花が挿してあった。
(1号墳)
(2号墳)
(2号墳石材)
(さいばらこふんぐん 愛知県宝飯郡一宮町上長山字西原・上新屋 1990年11月23日踏査)
本宮山から発する、宝川の右岸段丘に位置する後期古墳群である。この日は25号、22号、21号、10号、5号墳の順に踏査した。25号墳は墳頂が陥没し、22号墳も同様に陥没していたが、付近に内部のものと思われる土砂や石材がみられた。21号墳は南側に石材が露出し、北側半分は耕地となっている。10号墳(トップ写真)は古墳全体が茶畑となっていて、5号墳は宅地の敷地内となっている。この5号墳は、直径13m,高さ3mでいたるところが削られているが、墳頂から石室に入る穴が開いており、地主曰く「そこから腐った人骨と勾玉、長さ30cm程の刀子が出てきて、現在は役場にある」と言っていた。
(西原5号墳)
(石室内部)
(西原25号墳)
(関連記事:舟山古墳群)
本宮山から発する、宝川の右岸段丘に位置する後期古墳群である。この日は25号、22号、21号、10号、5号墳の順に踏査した。25号墳は墳頂が陥没し、22号墳も同様に陥没していたが、付近に内部のものと思われる土砂や石材がみられた。21号墳は南側に石材が露出し、北側半分は耕地となっている。10号墳(トップ写真)は古墳全体が茶畑となっていて、5号墳は宅地の敷地内となっている。この5号墳は、直径13m,高さ3mでいたるところが削られているが、墳頂から石室に入る穴が開いており、地主曰く「そこから腐った人骨と勾玉、長さ30cm程の刀子が出てきて、現在は役場にある」と言っていた。
(西原5号墳)
(石室内部)
(西原25号墳)
(関連記事:舟山古墳群)
(愛知県豊田市金谷町 市指定史跡)
延慶年間(1308-10)鎌倉幕府御家人中條成尋裔景長が凡そ20万㎡に及ぶ城郭を築城した。その景長は建武二年(1335)矢作川の戦いに参戦している。その後、代々中條氏が居城したが、明応二年(1493)井田野の戦いで松平氏と戦って敗北、次第に衰弱し、永禄四年(1561)織田信長によって落城し滅亡した。その後、徳川幕府となり、慶長九年(1604)武蔵瓶尻(みかじり:埼玉県熊谷市)より三宅康貞が一万石で故郷入りしている。然し、金谷城が古い城であったため、慶長十九年(1614)桜城を新たに築き移転した。
(賀茂古墳群 愛知県豊橋市賀茂町大塚 1990年11月22日踏査)
照山の南麓、間川北側の台地を俗に賀茂平という。この台地にはかつて、9基の古墳があった。その殆どは遺跡地図にも記載されていない古墳であるが、その内の大塚古墳、おこり塚古墳、丸塚古墳の跡を訪れた。土地の人に尋ねると、大塚古墳は直径凡そ35m,高さ3m程であったといい、大正7年(1918)に地主が住宅用の壁土に使うために古墳の土を採土し、現在のような0.5m程の高まりの痕跡を残すのみの耕地となってしまったということである。採土した際、墳頂付近から赤褐色の人物3体、馬、鶏等の埴輪らしきもの5点と、須恵器、勾玉が出土したという。その内、人物埴輪とみられるものは、高さ33cm、頭部周り15cm程で、基部は通常の人物埴輪のような円筒状ではなく、足が直接地に着くもの。そして、馬は脚部が欠損し、長さ24cm,高さ12cm,尾の長さ6cmという通常の埴輪と比べると非常に小さいものであったというが、子どもの玩具となり壊れてしまったという。この大塚古墳のあった辺りはかつて山林であり、大塚に登ると祟りがあるという言い伝えが残っている。
また、大塚古墳の南側、変電所と工場の社宅の間にある耕地付近には「おこり塚古墳」が存在したという。
照山の南麓、間川北側の台地を俗に賀茂平という。この台地にはかつて、9基の古墳があった。その殆どは遺跡地図にも記載されていない古墳であるが、その内の大塚古墳、おこり塚古墳、丸塚古墳の跡を訪れた。土地の人に尋ねると、大塚古墳は直径凡そ35m,高さ3m程であったといい、大正7年(1918)に地主が住宅用の壁土に使うために古墳の土を採土し、現在のような0.5m程の高まりの痕跡を残すのみの耕地となってしまったということである。採土した際、墳頂付近から赤褐色の人物3体、馬、鶏等の埴輪らしきもの5点と、須恵器、勾玉が出土したという。その内、人物埴輪とみられるものは、高さ33cm、頭部周り15cm程で、基部は通常の人物埴輪のような円筒状ではなく、足が直接地に着くもの。そして、馬は脚部が欠損し、長さ24cm,高さ12cm,尾の長さ6cmという通常の埴輪と比べると非常に小さいものであったというが、子どもの玩具となり壊れてしまったという。この大塚古墳のあった辺りはかつて山林であり、大塚に登ると祟りがあるという言い伝えが残っている。
また、大塚古墳の南側、変電所と工場の社宅の間にある耕地付近には「おこり塚古墳」が存在したという。
(むつなじょう 愛知県岡崎市六名町一丁目)
この辺りは、縄文時代晩期からの人々の営みである真宮遺跡の範囲内である。その一角に六名城は存在した。この城には、後に徳川十六神将と呼ばれた鳥居忠広、同じく徳川氏臣で近隣の影山城主でもあった成瀬正義、この地で生まれ、後に同じく徳川十六神将と呼ばれた蜂谷貞次、家康の側近ともなった安藤直次らが居城したという。
(熊野公園 山伏塚)
この辺りは、縄文時代晩期からの人々の営みである真宮遺跡の範囲内である。その一角に六名城は存在した。この城には、後に徳川十六神将と呼ばれた鳥居忠広、同じく徳川氏臣で近隣の影山城主でもあった成瀬正義、この地で生まれ、後に同じく徳川十六神将と呼ばれた蜂谷貞次、家康の側近ともなった安藤直次らが居城したという。
(熊野公園 山伏塚)
(馬越紺屋谷古墳群 愛知県豊橋市石巻本町紺屋谷 県指定史跡 1990年11月17日再踏査)
この辺りは、私が幼い頃に「古代」という時代を深く意識した切っ掛けの場所である。また、父が故郷に似た場所として、よく思い出を語っていた。
長火塚古墳は、古墳時代後期(6世紀後半)の前方後円墳であり、推定全長約60m,高さ5.5m,複室石室全長17m(羨道部含む)、高さ3m付近を測る、県下最大級の横穴式石室を持っている。
(関連記事:馬越長火塚古墳2009 口明塚南古墳)
この辺りは、私が幼い頃に「古代」という時代を深く意識した切っ掛けの場所である。また、父が故郷に似た場所として、よく思い出を語っていた。
長火塚古墳は、古墳時代後期(6世紀後半)の前方後円墳であり、推定全長約60m,高さ5.5m,複室石室全長17m(羨道部含む)、高さ3m付近を測る、県下最大級の横穴式石室を持っている。
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(愛知県豊川市千歳通四丁目 市指定史跡)
牛久保城主である牧野成定は、永禄八年(1565)家康が吉田城を攻めた際、酒井忠次と共に今川方の説得をし、無血開城させている。その翌年、成定は四十二歳で病没した。
墓碑は貞享元年(1684)に成定の曾孫である、大垣城主戸田釆女正(うねめのしょう)の妻になった人物により建てられ、石燈籠は寛政八年(1796)越後長岡牧野忠精(ただきよ)が建立したものであり、鞘堂は昭和50年(1975)牧野公奉賛会の手によって建立されたものである。
牛久保城主である牧野成定は、永禄八年(1565)家康が吉田城を攻めた際、酒井忠次と共に今川方の説得をし、無血開城させている。その翌年、成定は四十二歳で病没した。
墓碑は貞享元年(1684)に成定の曾孫である、大垣城主戸田釆女正(うねめのしょう)の妻になった人物により建てられ、石燈籠は寛政八年(1796)越後長岡牧野忠精(ただきよ)が建立したものであり、鞘堂は昭和50年(1975)牧野公奉賛会の手によって建立されたものである。