(愛知県新城市牛倉字城山 市指定史跡 1990年3月11日再踏査)
茶臼山城のある城山には、3基の古墳が存在した。1号墳は直径12m高さ2.5mで、変形しているが、横穴式石室が残る。2号墳は1号墳の北側にあり、道路によって変形している。3号墳は東側斜面にあったが、開墾によって滅失している。
1号墳石室
(愛媛県今治市五十嵐字上ノ山 1985年6月15日参拝)
物部氏の祖である伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)を祀る。地名の五十嵐(いかなし)も、この祭神名が由来とされる。眼下に国府が存在した時代は、伊予総社と呼ばれ、麓を流れる蒼社川(そうじゃがわ:総社川)の由来でもある。然し、安政五年(1858)火災に遭い、古文書や宝物が焼失してしまい詳細は不明となっている。
六甫作奉納絵馬
(西本郷1号墳 五十狭城入彦皇子墳墓 愛知県岡崎市西本郷町和志山 1990年3月22日)
景行天皇第六皇子である五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)は、この地を平定し、地名を鷲取にしたという。その五十狭城入彦皇子の墓とされる和志山古墳は、前方後円墳で全長60m,高さ6mあり、近くの和志取神社は同じく五十狭城入彦を祀る神社である。
(神奈川県藤沢市南藤沢)
遊行寺以来の藤沢駅前は、元旦ということもあって、閑散としていた。その藤沢駅の南口東側、中庭を挟んだ三棟のビルは、従来からの商業地を藤沢391街区の再開発事業として築造されたものである。最も駅に近いA地区のフジサワ名店ビルは、昭和40年(1965)、1階通路を挟んで向かい側B地区のダイヤモンドビル(三菱銀行に由来)は昭和41年(1966)、裏手C・D地区のC-Dビルは昭和46年(1971)に築造され、緑屋(月賦百貨店、後に西武傘下)が入店した。緑屋は昭和59年(1984)に業態変えをし、飲食テナントビルとなって、「ザ・プライム」に改称している。
(愛知県新城市牛倉字城山 1990年3月11日再訪)
南北朝時代、この地に城が築かれた。城主は伝わっていないが、隣村の欠下城と関連があると思われる。また、天正三年(1575)設楽ヶ原の戦いの際には、織田信長が陣を敷いたところでもある。その際信長は、「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」と句を詠んでいる。郭跡には平安時代末期の経塚があり、その上には山住稲荷が建つ。
設楽ヶ原を望む
(名古屋市東区徳川町 1989年10月29日)
一昨年、新館が完成してから初めて訪れる。 尾張徳川家第十九代義親は、昭和6年(1931)財団法人尾張徳川黎明会を設立し、昭和10年(1935)尾張徳川家別邸跡の現在地に徳川美術館を開館、御三家筆頭の徳川義直を祖とする尾張徳川家伝来の大名道具等を所蔵している。
(はえのさき 長崎県佐世保市南風崎町)
ハウステンボスのある針尾島から早岐瀬戸(はいきせと)を隔てた本土側を南風崎と呼ぶ。由来は岩礁の崎を表すからとされ、第二次世界大戦後、引き揚げ者の上陸地として賑わったという。
大村湾の横島を望む