(三重県一志郡美杉村竹原 2005年7月11日)
雲出川沿いのこの地も、中世は北畠氏の支配下であったが、近世は津藤堂家家臣小濱弥十郎守隆の所領地となった。地区の南東には、雲出川支流八手俣川を堰き止めた、君ヶ野ダムが昭和46年(1971)に完成している。
(三河港 愛知県豊橋市・田原市・蒲郡市・豊川市)
田原港、蒲郡港、西浦港と合わせ、三河港と称する。重要港湾指定を受け、最新情報では日本での港面積8位(13,200Ha)、輸出貨物取扱高10位、うち、自動車輸出2位、輸入1位となっている。また、自動車貨物取扱高は、世界5位となっている。
(徳島市徳島町ほか 2005年7月18日)
フェリーから市営バスに乗り換える。市街地に近付くにつれ、乗客も増えていった。駅まで行き、鳴門方面へと出向こうとも考えていたが、城跡が見えたのでここで降りることとした。鋭角な石垣の城内に入り、博物館へと足を進めた。終始、マンツーマンのガイドが付き、「徳島は蜂須賀二十六万石の藩で…」蜂須賀氏といえば、尾張の武士。愛知のことを振ってみると、中々詳しい解説者。これだけの城下の規模でありながら市指定史跡(表御殿庭園は国指定)に止まっているのは、都市計画開発の思惑があるからだ…等説明していただき、この場所の歴史の裏表が分かった気がした。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の功により、蜂須賀家政が十八万六千石で阿波一宮城に入封したのが始まりである。間もなくして大規模な城郭、城下町を築造し、徳島城となった。家政の子、至鎮(よししげ)のとき、大坂の役の功により、淡路一国八万一千石を与えられ、二十六万七千石となっている。以後、蜂須賀氏十四代で廃藩を迎える。
今は残存しないが、本丸ではなく二の丸に天守が有ったといわれる城を後にし、市街地へ向かうこととした。四国で一番小さい県都であるが、商業が栄えている。やはり水が豊富で港のある城下町がポイントであろうか。また水辺がしっかり整備されているのも、観光が廃らない理由の一つであろう。そして、ゴミを殆ど見かけないところも、このまちの陰の努力があるからであろう。
(北海道小樽市色内)
小樽駅前の小樽港に近い市街地である。付近には多くの近代建築が残り往時を偲ばせるが、規模の大きな建物は有効活用ができていないようにも感じた。また、地元の商業関係者が市の政策に対して不信感を持っていることを聞き、小樽衰退の一端を知るようであった。
旧北海道拓殖銀行小樽支店 大正12年
旧越中屋ホテル 昭和6年 (現閉鎖)
旧三井銀行小樽支店 昭和2年 (現閉鎖)
小樽商工会議所 昭和8年(現閉鎖)
旧川田商店 昭和8年
旧第四十七銀行小樽支店
(おきつ 三重県一志郡美杉村奥津 2005年7月11日)
北畠氏の本拠地であった多気からトンネルを通り、奥津の集落に辿り着く。辺りは神宮から初瀬、奈良を結ぶ伊勢本街道が通り、松阪から名張を経て桜井を目指したものの、この地を終点に選んだ名松線の伊勢奥津駅ある。
(長野県茅野市塚原)
茅野駅西口に案内板が立っている。地名が示す通り、かつては古墳が存在した。明治37年(1904)茅野駅開設に先立ち取り壊され、その際に装身具、鏡、土器等が出土している。また、昭和61年(1986)駅舎改築及び西口整備の際には、それまで残されていた石室の一部も撤去され、現在は標示が立つのみである。
(たいまでら 奈良県葛城市當麻)
この日は阿倍野から東大阪線で二上山麓のこの地に降り立った。當麻寺は「大和国當麻寺縁起」によると、推古天皇二十年(612)麻呂子皇子(当麻皇子:用明天皇第三皇子:当麻氏祖)によって万宝蔵院として創建されたのかが始まりという。その後、朱鳥六年(692)現在地に移築したとされる。
国宝 梵鐘 国宝 東塔 奈良時代末 重文 講堂 乾元二年(1303)
国宝 本堂 永暦二年(1161)
国宝 西塔 平安時代初期
重文 奥院鐘楼門 正保四年(1647) 重文 金堂 文永五年(1268)
境内には多くの国宝、重要文化財があるが、本堂(曼陀羅堂)はその棟札から、永暦二年(1161)建立と分かっているが、奈良時代に建立された建物の部材が再利用されていることが、調査によって分かっている。
(関連記事:當麻街道 首子塚古墳)
(びざん 徳島市眉山町 2005年7月18日)
アーケードを抜け、阿波おどり会館最上階からまちの高台「眉山」へと通じる市営ロープウェイ乗場に向かった。円筒形に近い小型のゴンドラが二基一組で走行する。それが二組。決して輸送力が大きいとはいえないが、需要相当といったところか。海抜約280m、市街や吉野川河口、紀伊水道が望める頂きは“青い国四国”を更に認識させる光景であった。
(北海道小樽市色内 市指定有形文化財)
水天宮の丘から色内の市街地に向け下っていくと、ルネサンス様式の建物が目に入る。明治45年(1912)建築家辰野金吾らによって築造された、鉄骨煉瓦造地上2階地下1階塔屋付、延床面積約1000m2の銀行建築である。平成14年、札幌支店に統合され小樽支店は廃止となり、翌年からは金融資料館として利用されている。
(三重県一志郡美杉村上多気・下多気 2005年7月11日)
比津…降り立つ駅に到着した。松阪より名松線は、大雨によって運転見合わせや徐行運転をしていたが、この頃には強い陽射しが照りつけるようになっていた。この場所に駅があること自体不思議な感じがする程の風景があった。駅から南進、急な坂を歩き北畠霧山城へと差し掛かる。標高約600m、北畠本拠地を見下ろすこの城は、砦の役目を果たしたところでもある。
霧山城
隠れ里へ下る。北畠氏の本拠地跡に鎮座する北畠神社に到着した。ひっそりとした人の気配も感じられない空間に朱塗りの社殿。その一角に北畠館が存在した頃に造られた庭園があった。入園料がいるようであり、社務所を訪ねると誰もいない様子。呼び出しボタンを押すと、境内の外から奥さんと思われる人が現れた。そして岩と苔蒸した庭園を眺め、六百年前の形に触れた。帰り、その奥さんに北畠氏のことを尋ねることとした。会話の中で流石歴史的なことは理解されているなと感じた。そこで、家譜に残る我が家の北畠との関わりを尋ねることとした。…詳しいことは主人(宮司)に聞かないと…ということであり、帰り次第調べて頂くこととし、神社を後にした。付近には村の埋蔵文化財センター、ふるさと資料館があり、見学すると殆んどの内容が北畠関連のことであり、この村の北畠による影響度を伺い知ることができた。