(愛媛県今治市小泉 2006年11月30日)
寺伝では大宝年間(701-4)行基が巡錫の折、村人が請うて本尊となる毘沙門天を刻んだものという。その後、河野家、大祝家(おおほうり:三島氏)によって諸堂の整備が行われた。
(東京都荒川区南千住)
明治29年(1897)日本鉄道の貨物駅として開設された隅田川駅は、10年後には国有化され、常磐線の貨物支線として三河島から分岐し、現在はこの場所でトラック輸送に切り替えるための物流基地となっている。
(愛媛県今治市小泉 2006年11月30日)
四国八十八ヵ所巡礼五十六番札所である真言宗金輪山泰山寺の奥の院、龍泉寺は、鏝絵(こてえ)と呼ばれる漆喰(しっくい)の彫り絵が施された堂宇がある。鏝絵は、左官職人が色漆喰を使い表現した芸術の一つであり、龍泉寺には壁鏝絵と本尊と同じ十一面観音の赤く丸い鏝絵が掲げられている。
(東京都中央区日本橋室町)
墨田区向島の三囲(みめぐり)神社から三越が勧請したものである。三越の前身である越後屋三井家の東北鬼門に鎮座した三囲神社が、その文字である井の字を囲んでいることもあって、三井家を守る神として崇められた。三越百貨店本店には大正3年(1913)に祀られ、本館落成の昭和10年(1935)に現在の屋上に祀られた。
(曹洞宗龍徳山天祐寺 愛媛県今治市町谷)
慶長九年(1604)武門失脚した三宅川惣兵衛越智通安が拝志郷寺川に祖先菩提のため創建したのが始まりである。通安の子で町方年寄役の次右衛門常定が寛永十二年(1635)東村に移転し、釈迦如来像を安置した。然し、富田川(頓田川)の氾濫により倒壊し、歓喜寺山麓の現在地に移転した。境内の思源碑は祖先の歴史を刻んだものである。
(東京都中央区日本橋本町)
べったら市で知られる宝田恵比寿神社は、かつて宝田村(千代田区九段)に鎮守したが、慶長年間江戸城拡張の際に現在地に遷座した。祭神は恵比寿である事代主命(ことしろぬしのみこと)であり、恵比寿像は徳川家康寄進の運慶または左甚五郎作とされる。
(愛媛県今治市高市 2006年11月29日)
「伊予風土記」によると神亀五年(729)九月二十五日山城国愛宕郡木舟大明神(京都市左京区貴船神社)を勧請したのが始まりであるが、祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)を祀る。河野氏族である高市氏(土佐藩士武市半平太は末裔)がこの地に移り住んだ際に大三島より勧請し、一時は高市神社と称した。
(東京都中央区日本橋馬喰町・日本橋横山町)
江戸時代から続く五街道に隣接する問屋街であるこの地は、幕府の博労頭が管理する馬場があり、博労(ばくろう:馬の仲介人)が多く住んでいたことにより後に馬喰町となった。また、横山町は横山氏という人物がこの地を知行していたからとされる。
(愛媛県今治市上徳字高森 2006年11月29日)
頓田川沿いに鎮座する三嶋神社は、旧徳久村との合成地名である上徳の前身、旧上神宮(かみかんのみや)村の鎮守である。神亀五年(728)河野氏祖である国司小千益躬(おちますみ)が大三島より勧請した伊予八社の三島宮の内の一社であり、地名の高森(こうのもり)は、鴻の森や河野森、或いは国府の森と書き、伊予国府を意味するともいわれる。境内には「大神宮さんの岩(天皇さんの岩)」と呼ばれる岩がある。昔、姫が頭に乗せて遠方から持ってきて積み重ねたという言い伝えや、雨乞いの際に岩の上で舞を舞った言い伝え。また、祭神である大山祇命(おおやまずみのみこと)が金襴に包んで着物の袂へ入れて持ってきた岩と伝わっている。
大神宮さんの岩
(愛媛県今治市東村 2006年11月29日)
白鳳元年(672)越智守興によって仙遊寺の別寺、法相宗新興寺として創建された真光寺は、藤原純友の乱の際に兵火に遭いその後再興され真言宗真光寺となった。更に鎌倉時代後期には華厳宗新光寺となっている。南北朝時代には北朝細川頼春が新光寺に陣を敷いて世田山の南朝大舘氏明と戦い、氏明は首級に挙げられ、この新光寺で首実験に供された。そして豊臣秀吉の四国征伐の際に再び兵火に遭い、天和元年(1681)現在の真言宗真光寺と改められ再興されている。
(東京都台東区浅草 都指定有形文化財)
浅草寺影向堂の西側にある六角堂は、元和四年(1618)に建立された日限地蔵を安置する同寺最古の堂宇である。平成6年(1994)影向堂の南側から移されるまで、井戸の上に建てられていた。