(河越城 埼玉県川越市 県指定文化財 日本100名城19番)
住宅地の中に存在する城跡、その一角に天守代わりであった富士見櫓跡の土塁と、川越高校側に堀の一部が残っている。櫓跡には御嶽神社や、「稲荷詞」と刻まれた祠等がある。近年、川越藩士末裔宅から富士見櫓の図面が見つかり、二層の櫓の再現計画が持ち上がっている。
富士見櫓からまた住宅地を挟み、本丸御殿がある。
現在残るものはその内の玄関、広間部分と家老詰所で、嘉永元年(1848)松平斉典(なりつね)のとき築造されたものである。貴重な建築物である御殿のすぐ前は道路であり、その前は駐車場となっている。日本100名城に選定されたが、現状維持だけではなく、それに似合った整備も望まれよう。このことに関して、御殿管理職員の方も同様の見解であった。
本丸御殿の南東、大同二年(807)創建の三芳野神社境内にも天神郭部分の土塁の一部がある。これら以外に残る遺構は、外堀の代わりとなっていた新河岸川以外はなく、九万八千坪あったという城地の殆どが市街地化され、住宅の他、多くの公共施設に変わった。せめて本丸部分及び現存する三ヶ所の遺構の一角でも整備されていたらと、非常に残念に感じた。寧ろ川越城外郭ともされる、
喜多院に残る堀、土塁の方が残存状態としては良い。
現在、二の丸跡が市立博物館、美術館、三の丸跡が住宅地、馬場跡が川越高校、武家屋敷等が小中学校、市民会館、市民体育館、市役所等になっており、
小江戸蔵の町並みを観光としながらも、城下町としての城跡の整備は軽視され、手遅れ感が否めない。最も最近である、平成2年開館の市立博物館及び美術館建設の際にも、二の丸跡再現等を考慮せず建てられている。
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川越城は長禄元年(1457)上杉持朝臣太田道真及び資長(道灌)によって築かれた。
天文六年(1537)北条氏綱が攻め落とし、北条氏の拠点の一つとなった。そして天文十五年(1546)になると、関東管領上杉憲政、上杉朝定、古河公方足利晴氏が連合軍を組み、七万の兵で川越城を取り囲んだが、結果、川越城北条氏康側が勝利した。(川越夜戦)
天正十八年(1590)豊臣方の前田利家勢に攻められ落城し、三河
西尾より酒井重忠が入城する。また、寛永元年(1624)酒井忠勝のとき、現存する三芳野神社社殿を造営している。
寛永十二年(1634)からは堀田正盛が入り、寛永十五年(1638)信濃
松本へ移封、代わって武蔵忍から大河内松平信綱が入り、城郭の拡大を行った。
元禄七年(1694)松平信輝は下総古河に移封し、柳沢吉保が入ったが、宝永元年(1704)に甲斐
甲府に移った。続いて甲斐谷村から秋元喬知が入り、明和四年(1767)秋元涼朝のとき、出羽山形へ移封し、上野前橋から越前松平朝矩が入り、廃藩まで松平氏が務めた。