(ムーンライト松山 2005年8月8日)
日没の頃、家を出る。盆休み客と通勤客で混みあった列車内。リュックを持った青春謳歌組も多数見かけた。途中、琵琶湖花火大会で夜遅いながらも、寿司詰状態で乗り切れなかった客がいる程の混雑であった。
京都で乗り換え、期間限定の夜行快速列車に乗る。ディーゼル機関車に牽引された客車は、途中で太平洋方面行きと瀬戸内方面行きとに分かれる。そして車内で繰り広げられる人間模様。敢えて省略するが、その人間の生い立ちが見えてくるように思えた。
父の故郷の街並みを窓越しに見ながら、終着地へと向かう。
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教科書にも載る伊勢物語九段の一節である。
各句のはじめをつなぐと「かきつばた」になる「折句」という技法が使われている。
在原業平が詠んだというこの句、現代訳すると、着馴れた唐衣のように馴れ親しんだ妻が都にいるので、遥々こんなところまで来た旅を悲しく思うのだ となる。
今の時節、当然のことながら杜若の季ではない。
然し訪れてみると、紅葉の赤、杜若の青を間近に見ることができた。
但し数本の勘違い花であったが…。
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この日は毎年恒例、“指定席”での花火見物であった。
近隣他所の花火よりは規模が小さいものの、一つ一つが味わえて良いのでは…と思っている。
ここを皮切りに、周辺では彩りの夜の季となる。
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昭和4年(1929)竣工、ルネサンス様式を基調とした、RC造地上3階(陸屋根4階)一部地下1階の建造物である。
井桁屋百貨店は嘉永元(1848)年創業の呉服商を前身とし、大正時代に街路拡幅の計画が持ち上がって、移転を兼ねこの建物が建造され、新たに百貨店として開業した。
屋上庭園を有し、三河地方最初の百貨店として開業したが、第二次大戦中物資不足により一時閉店、戦後再開されるも、間もなく閉鎖された。
近年、保存運動が高まり、この建物を使って署名、募金活動等がなされたが、持主が西尾市へ寄贈すると申し出るも、市が財政状況による維持困難や都市計画の邪魔を理由に拒否した。
先頃解体が決定し、間もなくこの建物も消え去る日がやって来る。
※ 2006年解体後の井桁屋百貨店跡地はこちら
(HP版:http://www.d1.dion.ne.jp/~tenyou/structure/igetaya-department-store.htm)
(三重県一志郡美杉村 2005年7月11日)
-海抜上昇-
向かう道中だけが大雨となり、山間に向かう列車は自転車並の速度となった。
この辺りの住民は老若男女問わず声が大きい。然し仲間内だけであって、外部の者には人見知り傾向にある。田舎の特徴である。
比津…降り立つ駅に到着した。
この頃には強い陽射しが照りつけるようになっていた。
この場所に駅があること自体不思議な感じがする程の風景があった。
駅から南進、急な坂を歩き北畠霧山城へと差し掛かる。
標高約600m、北畠本拠地を見下ろすこの城は、砦の役目を果たしたところでもある。
そして多気地区を下り始めた。
-隠れ里-
その本拠地跡に鎮座する北畠神社に到着した。
ひっそりとした人の気配も感じられない空間に朱塗りの社殿。
その一角に北畠館が存在した頃に造られた庭園があった。
入園料がいるようであり、社務所を訪ねると誰もいない様子。呼び出しボタンを押すと、境内の外から奥さんと思われる人が現れた。
そして岩と苔蒸した庭園を眺め、六百年前の形に触れた。
帰り、その奥さんに北畠氏のことを尋ねることとした。
会話の中で流石歴史的なことは理解されているなと感じた。そこで、我が家の北畠との関わりを尋ねることとした。
-探偵調査-
…詳しいことは主人(宮司)に聞かないと…ということであり、帰り次第調べて貰うこととし、神社を後にした。
付近には村の埋蔵文化財センター、ふるさと資料館があり、見学すると殆んどの内容が北畠関連のことであり、この村の北畠による影響度を伺い知ることができた。
伊勢本街道を歩き、新しい飼坂トンネルをくぐり坂を下ると奥津という集落に出る。ここから名松線の気動車に乗り、村の中心地八知へ。
駅前の役場を訪ね、先程の神社と同じ内容の質問をしたが、やはり詳細なことが分からず、また後日連絡を貰うこととし、美杉の里を後にした。
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(2005年7月18・19日)
…ただなんとなく和歌山から船で徳島に向かった。
途中、和歌山港線というローカル線に乗り、フェリーに直結。乗り込むと、窓があまりなく、動き出すとエレベーターに乗っているような体に感じる重力の波動。乗り物酔い経験のない私でも、何か落ち着かない感じがした。寝不足のせいか?船が大きく揺れ、波に船体を打ち付ける度に周囲から悲鳴があがる。大潮流を横切るため、日常的なようであるが、波浪注意報が出ていたため尚更である。水道を横切り二時間、阿波入りした。
フェリーから市営バスに乗り換える。市街地に近付くにつれ、乗客も増えていった。
駅まで行き、鳴門方面へと出向こうと思っていたが、城跡が見えたのでここで降りることとした。鋭角な石垣の城内に入り、博物館へと足を進めた。終始、マンツーマンのガイドが付き、「徳島は蜂須賀二十六万石の藩で…」蜂須賀といえば、尾張の武士、愛知のことを振ってみると、ナカナカ詳しい解説者、これだけの城下の規模でありながら市指定史跡に止まっているのは都市計画開発の思惑があるからだ…等、この場所の歴史の裏表が分かった気がした。 今は残存しないが、本丸ではなく二の丸に天守が有ったといわれる城を後にし、市街地へ向かうこととした。四国で一番小さい県都であるが、商業が栄えている。やはり水が豊富で港のある城下町がポイントであろうか。また水辺がしっかり整備されているのも、観光が廃らない理由の一つであろう。
休日と平日両方の姿を見たが、私の住む近隣同規模の都市と比較にならない程の賑やかさがあった。夜、宿泊先のテレビを見ていると、昼博物館に取材に来ていた四国放送ローカルニュースで館内が紹介されていた。
翌朝、宿泊先に近い、官公庁へ向かった。観光がしっかりしているこの地も、生涯学習関連はそれ程でもないようである。アーケードを抜け、阿波おどり会館最上階から市高台「眉山」へと通じる市営ロープウェイ乗場に向かった。円筒形に近い、小型のゴンドラが二基一組で走行する。それが二組。決して輸送力が大きいとはいえないが、需要相当といったところか。海抜約280m、市街、吉野川河口、紀伊水道が望める頂きは“青い国四国”を更に認識させる光景であった。
「釈尊が修行をなさって悟りをひらいた…」の意。
大衆を救済するため、濁り濁った人間世界を超えていくことが、出世(間)の本意。
他人より偉くなって優越感に浸ることは本当の「出世」ではない。
人と人との交わりをしながら、より良く生きようと努力する人。
限りある人生の中で、安らぎを持って生きている人。
過去を振り返って、これで良かったと思える人。
…これらが、現代において本当の大きな出世であろう。
ようやくエリアが広いことを認識したようだ。
まだまだ出てくるであろう欠陥構造物。
私の住む地方でも続々と明らかになってきている。
最近のビルは、柱構造を確認し辛い造りとなっていることが多いが、よく見ると細い一階の柱、薄い外壁、取り壊しを容易にしたスクラップ&ビルド構造。
某建築設計事務所、建設関係以外でも、同類の事柄を行っている情報を私は掴んでいる。
これにより供給過剰を極めた、集合住宅建築バブルの終焉を迎えるであろう。
前編:http://blog.goo.ne.jp/kourei-flow/e/a450d6ac104fdfef5aaefdbf0ddb955f