(にぶたに 北海道沙流郡平取町二風谷)
沙流川沿いに形成された集落である。治水事業により二風谷ダムが建設されることになり、先住民であるアイヌにより訴訟を起こされ、日本における先住民の存在が改めて衆知された。結果ダムは完成し、アイヌ集落の一部が水没した。
(アイヌの遊び)
(アイヌ家屋のチセ)
二風谷はアイヌ語でニヒタニ・ニブタイ・ニプタイと呼び、柄をつくった場所、或いは柄をつくる木が生える場所、柄をつくる木を採った場所を意味するという。
ダム反対運動を先頭に立って行い、国会議員であった萱野茂氏の開設した二風谷アイヌ資料館がある。
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(萱生古墳群 奈良県天理市中山町大塚 県指定史跡)
山辺の道は、この古墳に沿って通っている。中山大塚は、古墳時代前期初頭の前方後円墳であり、全長130m,高さ約11.3m,3段築成で、後円部北側と前方部東側の墳裾に造り出し(祭祀場所)がある。造り出しからは、特殊器台片(後の円筒埴輪)が検出されている。内部施設は竪穴式石室で、石室内からは割竹形木棺が確認されている。
古墳は大和神社の所有となっており、前方部の南側は墳丘の一部を削って大和神社の境外摂社である御旅所坐神社(大和稚宮)が建てられている。かつては後円部墳頂に社殿が建てられていたという。
北側に隣接して、中山大塚古墳より少し後に造られた燈籠山古墳が存在する。
鎌江城跡の山腹に鎮座し、宇和島藩家老・山家公頼(やんべきんより)を主祭神とする。公頼は伊達政宗の家臣であったが、元和元年(1615)政宗の長男・秀宗が宇和島に移封されるのに従い、その家老として藩政を支えた。宇和島はそれまでの領主の悪政により疲弊していたが、公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。しかし、元和六年(1620)藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による中傷を信じ、公頼とその息子らを殺害させた。公頼を慕う領民たちは、密かに城北森安の八面荒神の境内に小祠を設けて公頼一族の霊を祀った。その後、公頼殺害に関与した者が落雷・海難などにより次々と変死し、また公頼の無実も判明したため、承応二年(1653)秀宗は公頼を祀る神社を創建し、山頼和霊神社と称した。享保二十年(1735)に現在地に遷座した。昭和20年(1945)に空襲で焼失されたが、昭和32年(1957年)に再建されている。
明治元年(1869)、戊辰戦争後の謹慎中の徳川慶喜は、紺屋町西隣の常磐町宝台院で閑居していたが、翌年謹慎は解け、代官屋敷であったこの場所に移り住んだ。明治21年(1888)に浅間神社東側の西草深に移るまで、この屋敷で趣味に没頭したという。その後この地は戸籍役場の共有となったが、市内有力有志により料亭として開業し今に至っている。
松江城北側の堀沿いを塩見縄手と呼ぶ。これは、松江藩中老、塩見小兵衛の屋敷があったことに由来する。また隣接して、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の旧居(旧根岸家住宅)がある。
平成12年に開館した「ふれあいセンターびらとり」三階にあり、休館日は月曜日で、開館時間は平日9時から18時まで休日は17時までとなっている。貸出は一般図書5点と、視聴覚資料2点、雑誌2点である。
(鶴島城 愛媛県宇和島市 国指定史跡 日本100名城83番)
宇和島城の始まりは、天慶四年(941)伊予国警固使橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたことから始まる。次に、嘉禎二年(1236)西園寺公経がこの地に移り、丸串城と称した。天文十五年(1546)には、家藤監物が城主となる。そして、天正三年(1575)になると西園寺宣久が入った。天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国討伐によって、伊予国は小早川隆景の所領となり、隆景家臣持田右京が城代を務めた。然し、天正十五年(1587)隆景は筑前国に移封となり空城となった。文禄四年(1595)には藤堂高虎が宇和郡七万石で入城。城郭を改修し、宇和島城と名付けられた。慶長十三年(1608)富田信高が伊勢津より転封し入城するが、慶長十八年(1613)改易となり、藤堂良勝が入った。間もなくして仙台藩伊達政宗の庶長子、秀宗が十万石で入封し、以後廃藩まで伊達氏が続いた。
昭和20年(1945)空襲によって追手門を焼失。昭和24年(1949)伊達家が、残されている建物及び城山を宇和島市に寄贈している。平成6年からは、石垣の修築、復元が行われている。
(旧家老桑折家武家長屋門)
(北角矢倉跡)(国重文 三重三層天守)
(南を望む)(東を望む)(西を望む) (本丸御台所跡)
宍道湖と大橋川を利用した丘城である。鎌倉時代、この地に先ず末次城が築かれた。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで功のあった堀尾忠氏が二十四万石で月山富田城に入城したが、山城であったためこの末次城の跡地に移転し、現在地の松江城となった。忠氏、吉晴、忠晴と続くが、忠晴に嗣子が無かったため、堀尾氏は改易となった。続いて、寛永十一年(1634)若狭小浜より京極忠高が二十六万石で入封し、城郭を拡大した。然し、寛永十四年(1637)忠高に嗣子が無いため改易となり、信濃松本より松平直政が十八万六千石で入封した。以後、廃藩まで松平氏が続いた。
(復元南櫓と重文天守)
(二之丸復元南櫓と中櫓)
(復元太鼓櫓)
(二之丸下ノ段米蔵跡)(重要文化財天守) (水の手門跡)