(愛知県豊橋市関屋町 旧県社 1999年7月18日)
大宝二年(702)持統天皇を祀ったのが始まりとされる吉田神社は、天治元年(1124)天台宗感神院祇園社(1868-八坂神社)より牛頭天王(ごずてんのう:本地垂迹(ほんじすいじゃく):神仏習合による化身思想によって薬師如来と牛頭天王と素盞鳴(すさのお)を同一視するもの)を勧請し、牛頭天王社と呼ばれた。治承二年(1178)源頼朝が伊豆に向けて配流の際、郡内雲谷(うのや)の普門寺に滞在し、鈴木元利を名代として当社に参拝させたという。また、文治二年(1186)には、臣下の三浦氏族石田為久に代参させている。更に建久年間(1190-99)には三河国守護安達盛長に命じ社殿を造営させたという。その後、永正三年(1507)牧野成時(古白)によって神社を取り込む形で築城された今橋城(吉田城)の鎮守として社殿が再建されている。そして、天文十六年(1548)には今川義元が神輿を寄進し、この時から神輿渡御が始まったという。更には、永禄三年(1560)今川氏臣大原知尚の奉納により、手筒花火が始まったとされる。明治維新になると、神仏判然令によって、吉田神社に改称された。
(横浜市都筑区中川中央)
一昨年に、隣接する「センター南」を訪れ、辺りは大雪の影響で積雪があったが、今回も雨にみまわれ、足下が悪い状況であった。センター北は、港北ニュータウン・センター地区北を指し、昭和40年(1965)に計画されたものの一部である。平成5年に横浜市営地下鉄センター北駅が開業して以降、阪急百貨店がキーテナントのモザイクモールや、ノースポート等の大規模商業施設が参入し、比較的規模の小さな商業施設は空きテナントが出始めている。
(御厨古墳群 静岡県磐田市新貝 1991年6月21日)
磐田原台地に位置する全長116m,高さ13m,4世紀後半の前方後円墳であり、竪穴式石室及び朱塗粘土槨、葺石、埴輪、周濠を持つ。昭和6年(1931)と昭和36年(1961)に発掘調査が行われ、初回発掘時に内行花文鏡1、二神二獣鏡1、倭製内行花文鏡1、四獣鏡1、碧玉製勾玉2、碧玉製管玉50、貝製釧2、巴形銅器、碧玉製石釧2、石製模造品、鉄剣12、大刀2、直刀、鉄矛12、銅鏃80、革綴短甲1、鎌、槍鉋、鑿(のみ)、斧が出土した。2回目の発掘調査は新幹線築造に伴うもので、前方部の一部が新幹線用地として削られた。
松林山古墳発掘記念塔
古墳前に立つ聖観音
(愛知県宝飯郡一宮町大木字鑓水 1999年6月13日)
新道台地と鑓水(やりみず)台地の間に位置する溜池である。近隣の年長池、坂下池、梵地池と共に明和二年(1765)に築造され、灌漑(かんがい:供給)面積は18ha,満水面積0.5ha,貯水量3,400m3,堤高4m,堤長64mである。東側斜面は旧石器時代の大沢池遺跡、台地上には弥生時代中期・後期の鑓水遺跡群がある。新道台地(宝陵高校)側には弥生時代後期の新道遺跡と行者古墳があって、人々の営みが盛んな地でもあった。
1996年10月13日老朽溜池改修工事
改修工事によって削られた大沢池遺跡
(東京都世田谷区等々力 都指定名勝)
私の旧宅付近では見慣れた光景だが、東京では貴重な自然である。区内桜丘より発し、湧水を集め南進して多摩川に注ぐ谷沢川の渓谷であるが、かつての谷沢川は、東進して現在の九品仏川へと繋がっていたという。等々力(とどろき)は水が轟くという意味があり、私が以前暮らしていた地域にある土々川(どどがわ:豊川市)、道目記(どうめき・どどめき:新城市)、百々(どうど:岡崎市)等は同様の意味を表す。渓谷沿いには7世紀の横穴古墳が6基あり、昭和48年(1973)に発掘調査された3号墳の横穴が開口保存されている。また、近隣真言宗致航山満願寺の別院、滝轟山明王院(等々力不動尊)があって、僧覚鑁(かくばん:嘉保二年(1095)-康治二年(1144)が開創したという。
横穴古墳
等々力不動尊
(静岡県磐田市高町 1991年6月21日)
史跡公園内に保存された、旧石器時代の遺跡、弥生時代の方形周溝墓、5世紀の埴輪窯及び古墳、5世紀古墳の末裔墳墓と推定される6~7世紀の13基からなる古墳群の複合遺跡である。古墳東側にある石碑には、この地に住んだという光仁天皇の皇子で後に僧となる開成皇子(かいじょうのみこ:神亀元年(724)- 天応元年(781))が、古墳の上から京の方向を眺めたという伝説があり、京見塚の名前の由来となっている。大正11年(1922)に発掘調査が行われ、現在の姿となった。
戒成皇子歌碑「衣手の なみだも空に はれやらで 都のかたは 白雲ぞたつ」
1号埴輪窯(5世紀後半・長さ6.3m,幅1.9m,床面傾斜角13.5℃)
円墳(5世紀後半・直径47m,高さ8m,横穴式石室・埴輪棺4基・周濠・埴輪)
横穴式古墳(7世紀)
方形周溝墓(弥生)
(愛知県豊川市八幡町忍地 国指定史跡 1999年6月6日)
平成8年から行われていた史跡整備に伴う発掘調査も最終年度となり、国分尼寺再現に向けた事業がいよいよ始まる。
以下、3月14日
(関連記事:忍地 三河国分尼寺発掘調査 三河国分尼寺跡史跡公園 盆の三河国分尼寺)
(荏原台野毛古墳群西岡8号墳 東京都世田谷区野毛 都指定史跡)
国分寺崖線(多摩川左岸河岸段丘)上にある帆立貝式の前方後円墳である。全長82m,高さ11m,3段築成で造出(つくりだし:祭祀場)、葺石、円筒・形象埴輪、周濠を持つ。明治30年(1897)4基の埋葬施設が発見され、中央部に粘土槨の割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に二基の箱形木棺と共に大量の石製模造品(武具や農具、装身具等を滑石で模造したもの)や鉄製甲冑、鉄剣、直刀、耳環や玉類等の装身具が出土した。最初の埋葬から50年程の間に追葬があったと推定される。埋葬施設発見後、墳頂に吾妻神社が祀られ、昭和6年(1931)には周辺が目黒蒲田電鉄の経営するゴルフ場「等々力ゴルフリンクス」となったが、昭和14年(1939)からは内務省防空研究所に変わり、古墳は対空高射砲陣地となった。戦後は玉川野毛町公園となり、平成元年から4年にかけて発掘調査が行われ、規模や外部施設が明確となった。調査後は復原整備及び埴輪のレプリカが並べられ、史跡公園化された。
箱式石棺
(静岡県磐田市河原町 1991年6月21日)
直径80m,高さ8m,2段築成の円墳であり、外部施設として葺石、埴輪、周濠を持つ5世紀前半の古墳である。昭和19年(1944)墳丘に陸軍対空高射砲陣地が建設された際、粘土槨(防水埋葬施設)内から埋葬者と共に三神三獣鏡、玉類、大刀が出土した。その後陣地は解体されたが、墳丘にはコンクリート、煉瓦、土管の破片が散乱している。現在は「かぶと塚公園」の一角となっているが、墳頂は削平されたままであり、文化財指定と共に復元が望まれる。
(愛知県蒲郡市清田町下新屋 国指定天然記念物 1999年6月6日再訪)
5年前、亡くなる前年に父と訪れた清田(せいだ)の大樟(おおくす)。そのとき父は大樟の幹に手をやり「力を貰った」という言葉を発した。然しその後父は亡くなったが、大樟は変わらず蒼々としていた。大樟は推定樹齢千年とされ、源(八幡太郎)義家が後三年の役の記念に植えたという伝説がある。また付近は、縄文時代晩期から弥生時代にかけての人々の営みの地(大樟遺跡)でもある。
(かみのげ 東京都世田谷区上野毛・野毛)
前項「下野毛」同様、崖を由来とする地名とされる。崖下には府中と品川を結ぶ古代からの道「品川道」が通り、次大夫堀(六郷用水・丸子川)沿いには慶安年間(1648-51)近隣深沢村から移転した真言宗影光山善養寺があって、境内には樹齢800年の榧(カヤ:マツ目イチイ科)の他、数々の信仰対象物や置物が点在する。また、大井町線沿いには東急創業家の五島邸があり、一角が五島美術館及び旧五島家庭園として開放されている。
住宅地の中の祠、龍神社
善養寺
善養寺のカヤ
元和年間創建の野毛総鎮守 六所神社
上野毛の鎮守 稲荷神社
多摩美大
大井町線富士見橋
五島邸不老門
五島邸内 稲荷丸古墳
五島邸の横を通る大井町線
(愛知県豊田市井上町 1991年6月19日)
井上町は11年振りに訪れるが、短期間であるのにかなりの風土の容姿が変化していた。井上1号墳は宅地化し、2号墳は周辺まで開発がされていた。2号墳は現状で直径15.5m,高さ2mであり、葺石と埴輪を持つ5世紀の円墳である。豊田地域では宇津木古墳に次ぐ古い古墳であるが、墳丘の中央が採土され内部主体が現存していないので詳細なことは分からない。また、付近に住む人が「昔はこの辺りに石鏃がたくさん落ちていた」と言っていた。
(こまんばいけ 愛知県豊川市平尾町駒場 1999年5月23日)
度々訪れる駒場池であるが、この日は水位が下がり、いつもの光景とは違っていた。豊川用水西部幹線水路の調整池として、西古瀬川源流付近に昭和43年(1968)に竣工した、総貯水量900千m3の人工池であり、この池を水源として豊川市に給水する浄水場がある。