(東京都中央区日本橋中洲・江東区清澄 国指定重要文化財)
旧深川区清住と日本橋区中洲のそれぞれ一字を取り、清洲橋と名付けられた。関東大震災復興事業により大正14年(1925)に着工され、昭和3年(1928)に竣工した、橋長186m,幅26mの橋の両端でケーブルを固定する自碇式鋼鉄製吊り橋である。
(岐阜県高山市神明町 市指定文化財 2003年9月14日)
明治28年(1895)に築造された、総檜造二階建、折曲格天井、高山初硝子障子使用の建築面積500m2の庁舎である。市制施行の昭和11年(1936)からは市役所となり、昭和43年(1968)市役所移転新築後は公民館として利用され、昭和61年(1986)市政記念館として開館した。
(東京都江東区清澄 都指定名勝)
江戸時代中期、この辺りに紀伊國屋文左衛門の屋敷があり、その後は下総関宿久世氏の下屋敷となった。明治になると岩崎弥太郎が深川親睦園として改修し、その後、隅田川の水を引いて回遊式林泉庭園が完成した。然し、関東大震災により被害を受け、また防災的観念により園の東半分を東京市に寄贈し、現在の清澄庭園となっている。
(愛知県豊橋市石巻本町御所 2003年8月16日)
豊川(とよがわ)左岸河岸段丘の谷地に築造された溜池である。築堤を隔てて下段にも和田下池があり、明治21年(1888)牟呂用水が通水するまでは、段丘下の水田を潤す貴重な水であった。
(東京都大田区下丸子)
丸子は多摩川対岸の川崎市中原区上丸子、中丸子、及び新丸子同様、古代の部民制丸子部(まりこべ)が由縁とされ、『吾妻鏡』(あづまかがみ:鎌倉時代の歴史書)にも地名の掲載がみられる。室町時代末期には丸子から上丸子、下丸子が分立し、江戸時代には「まりこ」から「まるこ」へと呼び方が変わった。分断された地名でも分かるように、多摩川の氾濫に翻弄された地でもある。
(東京都大田区久が原)
大田区の高級住宅地の一つとされる「くがはら」。武蔵野台地末端であるこの地は、弥生時代後期からの人々の営みの跡が多くみられ、南関東地方の土器編年基準である久ヶ原式に指定されている。昭和41年(1966)までは久ヶ原と書き、近世は久河(川)原と書いた。
(東京都大田区池上)
本門寺仁王門に隣接する長栄堂の大威徳天を明治維新時の神仏判然令によって長栄稲荷として分離され、大正9年(1920)近隣の田上稲荷、玉造稲荷と合祀し現在地に遷座された。
神社横の車坂
(長野県茅野市北山 2003年6月29日)
標高2240mの坪庭を訪れた後、麓の1250mの高さにある蓼科湖を訪れた。昭和27年(1952)に灌漑溜池として築造された周囲1kmの小さな湖であるが、背後に標高2531mの諏訪富士こと蓼科山や八ヶ岳が望め、信州らしい光景が常に目に入ってくる。
(白雲館 滋賀県近江八幡市為心町 国登録有形文化財 2003年6月22日)
明治10年(1877)に築造された、木造2階建塔屋付、延床面積492m2の学校建築である。明治28年(1895)からは八幡町役場となり、明治33年(1900)からは蒲生郡役所、大正11年(1922)には八幡町信用組合、翌年再び蒲生郡役所となった。昭和26年(1949)近江八幡電報電話局を経て、昭和41年(1966)からは民間所有となり、平成4年に市に移管され、復原工事が成されて現在は観光案内及び市民ギャラリーとして活用されている。
(日蓮宗長栄山大国院本門寺 東京都大田区池上)
弘安五年(1282)日蓮が療養のため身延山から常陸に向かう途中、領主池上宗仲の館に留まり、背後のこの地に本門寺を開創したのが始まりである。間もなく日蓮は宗仲の館で没し、その後は各時代の有力者によって保護され繁栄した。