島田代官長谷川藤兵衛と駿河記編集者桑原黙斎を顕彰する碑である。地元の郷士長谷川藤兵衛長盛と長親、長勝、長春、勝峰の五代の島田代官は、大井川修堤、堀抜水門、問屋川・中満川・宮川の治水等私財を投じて尽力した。桑原黙斎は、明和三年から天保三年にかけて駿河七郡と七百十八村十二駅三域の地誌を編集した「駿河記」と、「大井川河原紀行分」を著した。この先賢碑は、大正13年(1924)島田町長置塩藤四郎が建立したものである。
(静岡県島田市大井町 2008年3月10日)
島田代官長谷川藤兵衛と駿河記編集者桑原黙斎を顕彰する碑である。地元の郷士長谷川藤兵衛長盛と長親、長勝、長春、勝峰の五代の島田代官は、大井川修堤、堀抜水門、問屋川・中満川・宮川の治水等私財を投じて尽力した。桑原黙斎は、明和三年から天保三年にかけて駿河七郡と七百十八村十二駅三域の地誌を編集した「駿河記」と、「大井川河原紀行分」を著した。この先賢碑は、大正13年(1924)島田町長置塩藤四郎が建立したものである。
島田代官長谷川藤兵衛と駿河記編集者桑原黙斎を顕彰する碑である。地元の郷士長谷川藤兵衛長盛と長親、長勝、長春、勝峰の五代の島田代官は、大井川修堤、堀抜水門、問屋川・中満川・宮川の治水等私財を投じて尽力した。桑原黙斎は、明和三年から天保三年にかけて駿河七郡と七百十八村十二駅三域の地誌を編集した「駿河記」と、「大井川河原紀行分」を著した。この先賢碑は、大正13年(1924)島田町長置塩藤四郎が建立したものである。
(静岡県島田市本通 2008年3月10日)
東海道の程近くにある正覚寺は、日蓮の弟子日持(1250-)によって開創されたと伝わる。その後衰退し、江戸時代前期に島田代官長谷川藤兵衛によって再興されている。
(相模線支線 神奈川県高座郡寒川町一之宮)




















大正11年(1922)相模鉄道の相模川砂利採取貨物路線として、先ず寒川-川寒川間(1.3km)が開業。翌年寒川-四之宮間(1.9km)が開業した。(川寒川支線は昭和6年廃止)昭和19年(1944)沿線に相模海軍工廠が設置されたのを機に国有化され、途中駅の東河原が西寒川と改称された上で終点となり、四之宮駅は廃止された。砂利運搬は昭和39年(1964)採取禁止を機に廃止され、旅客営業も昭和59年(1984)廃止となった。跡地は一之宮緑道として整備され、一部の路盤も残されている。





















(静岡県島田市大井町 旧県社 2008年3月10日)
大井川の氾濫によって上流大沢村より島田に流れ着いたのがこの地での始まりとされる。平安時代の「日本三代実録」に、「貞観七年(865)授駿河国正六位上大井神社従五位下」と記載がある。大井川の度重なる氾濫によって、元禄二年(1689)現在地に遷座するまで幾度となく遷座したようである。
(静岡県富士宮市上井出字瀧元 2008年3月10日)
創建は不詳ながら、源頼朝が富士の巻狩の際に参拝したと伝わる。江戸時代後期には「富士大権現社」と称され、主祭神は熊野神であるが、相殿には瀬織津比賣神(せおりつひめのかみ)を祀る。寛文十年(1670)の「日本惣国風土記」に「白絲乃瀧、御守神社、所祭瀬織津比也」と記載され、この熊野神社は白糸の滝の滝神であったと推定される。
(静岡県富士宮市上井出 2008年3月11日)
芝川のほとりには、源頼朝が行なった巻狩(狩猟競技)の際に、曽我兄弟が父の仇である頼朝臣の工藤祐経を討とろうと考え、岩に隠れて密談をした「曽我の隠れ岩」がある。その岩の南側には、工藤祐経の陣所があり、その場所で討たれた祐経の墓碑が建つ。