(北法相宗音羽山清水寺 京都市東山区清水 世界文化遺産 国宝 重要文化財)
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(五間道路 愛媛県今治市)
今治城南東側の内堀沿いにあるこの道は、幅が五間(約9m)あることから、こう呼ばれるようになった。(現在は12m)この通りの付け根に住んでいた私の父は、生前よく話に現れていた。
(海軍高角砲陣地 愛知県豊川市三上町権現山)
第二次世界大戦末期に築造された軍事施設である。標高68mの権現山頂に2基の砲台が計画され、1基は完成したが、もう1基は未完で終戦を迎えた。完成した砲台は現在、水道施設となっており滅失したが、未完の砲台は権現山古墳北側に約10mのCの字状の築堤を残している。また、傍らには兵舎が建設される予定であった平坦な場所も残っている。
(愛知県豊橋市石巻本町別所・北入田 県指定史跡)
標高68mの権現山頂及び尾根に築造された前期古墳である。1号墳は南側に位置し、全長38mの前方後円墳であり、竪穴式石郭、葺石を有する。2号墳は北側の最高所にあり、全長33mの前方後円墳である。
周辺は戦時中、海軍高角砲陣地として利用された。
(2号墳)
(1号墳)
(愛媛県今治市)
墓参と上朝倉の訪問から市街地へと舞い戻った。
何度来ても衰退が否めない街並み。私が初めて訪れた昭和51年頃と比べると、明らかな差がある。全国で起きている市街地空洞化は、この地でも起きているが、愛媛県第二位、四国の県庁所在地以外では第一位の人口を有し、四国の大阪と呼ばれた今治も、港の衰退、商業の衰退、年間千人以上の人口減少により、かつて栄えた地のような有り様になってきている。
(完全撤退した旧ダイエー・今治ショッパーズ)
(閉店二年を過ぎた今治大丸)
(銀座・本町・新町交差点)
北海道夕張と愛媛県今治。この二つのバリは、双方とも我が家にとってはゆかりの地であり、何とかして手助けができたらと微々力な私が思う地である。
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(島根県大田市大森町 世界文化遺産 国指定史跡)
徳川幕府が終わり、明治時代に入ると、石見銀山はそれまでの大規模な採鉱から、地元の人たちによる小規模な採鉱に変わった。明治28年(1895)になると、長州萩出身の藤田伝三郎が起業した大阪の藤田組によって、仙ノ山福石鉱床での大規模採掘が再開された。それに先立ち、20万円(現在の価値で約20億円)をかけ、清水谷製錬所を建設した。精錬方法は、収銀湿式製錬法と呼ばれるもので、酸やアルカリ溶液で一旦、鉱石から銀を溶かした後に、銀を取り出す方法である。然し、鉱石の品質が当初の予想より悪く不採算状態となり、精錬開始からわずか一年半で操業を停止した。今は斜面に石の擁壁、八段の基壇が残るのみである。
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(さるがわ 北海道日高地方)
標高1175mの熊見山より発し、大平洋に注ぐ全長104kmの一級河川である。源流付近は沙流川源流原生林として保護されている。また、平成16年には全国河川水質調査で日本一となっている。河口から21kmの地点に二風谷ダムが築造された。この辺りはアイヌが多く居住する地であったため、ダム築造にあたり強い反対運動が起きた。沙流川は、アイヌ語でシシリムカ(砂が流れる川の意)といい、土砂流出が多く、ダムの堆積土砂が、通常の二十倍の速さで堆積し、問題となっている。