(静岡県磐田市 国指定史跡)
旧東海道見付宿の一角には旧制小学校の校舎がある。
明治5年(1872)学制発布に伴い、翌年見付の町にある寺院によって開校した見付学校は、明治8年(1875)地元有力者らの協力で現在残るこの校舎が完成した。
土台石垣は、遠州横須賀城の石垣を用い、木造二階建二層楼擬洋式建築であり、玄関付近はエンタシス様式を採用している。
明治16年(1883)には、生徒数増加により、二階と二層楼の間にもう一階を増築し、三階となった。その後、大正11年(1922)からは一時中学校、教員養成所、裁縫女学校、戦中戦後は病院としても使われたが、昭和28年(1953)からは郷土館として利用、その後国史跡に指定され、解体修理が行われて現在に至っている。
(関連記事:睦沢学校煥章学校開智学校文武学校)
中泉から見付に差し掛かる。
ここは東海道二十八番目の宿場町。毎度のことながら、あえて雰囲気に任せて歩いてみる。幾つかの社寺を過ぎ、そのまま歩いて行くと北方にあるバイパスのインターまで行ってしまった。そこから戻り、丘の上を少し歩くと赤い鳥居が見えた。そこには小さな稲荷社があり、中に掲げられた写真には、桜の花とこの社が写っていた。よく見ると、社と鳥居の間に朽ちた桜の木が横たわっていたが、その前には二代目が植えられていた。
道中、数少ない時宗の寺院に寄り、天神さんへと向かう。
この辺りでは大きな神社である見付天神社は、神の使いとして鶏や犬、猫などが飼われており、賑やかである。裏方には、戦前に整備された、つつじ公園があり、その一角には霊犬神社が祀られている。
この後、街道筋を西に行き、旧見付学校、埋蔵文化財センター、旧赤松家住宅の順に歩いて行った。
(関連記事:東海道天竜川)
過去には昭和57年に一回、平成2年、3年に一回ずつ訪れている。
駅の改築や街路整備は進んでいるものの、明らかに以前より閑散としていた街並み、ここは旧東海道筋でもある。
中心地活性化を目標に、「天平のさと」なる住居商業複合施設が建ったようだが、空きテナントばかりでエスカレーターの音が虚しく響くばかりであった。またそのすぐ隣では、商業施設の解体がされており、今のままでは良い方向に向かわないことを実感した。
市役所に寄り、そこに隣接する遠江国分寺跡を訪ねた。
季節柄、梅の花が咲き始めていて、心安らぐ光景であった。
国分寺跡の東隣には、当時の仏教保護のために天平時代に勧請された府八幡宮が鎮座し、楼門には八幡神なる神像を祀り、遠江国の中心地であった頃の雰囲気を残している。
続いて、見付の宿場町へと歩いて行く。
一方、ほの山(本宮山)に目を向けると、変わらない精悍な姿を見せてくれる。
手前は、合併後も区画整理されてない畑や道。
然し、近々住宅地化と、ほの山にも第二東名の開発が待っている。
この姿が変わるのも、そう遠い先ではないかもしれない。
区画整理前の町並みも残すが、そのまま工業都市の住宅が建ち始め、狭い道路に車が激しく往来する。
近年、近くにハイウェイオアシスが開業し、更に往来が激しくなった。
そんな町並みに、小さな古い橋があった。
下を見ると水も無く、川溝も、途中で途切れている。
河川改修をし、川が移動した後、そのまま放置されたようである。
移動された川の近く、今尚残る畑の中には古墳時代中期の井ヶ谷古墳があったが、今は痕跡だけを残す状態となっていた。
旧集落は、古墳からこの茶屋川を隔てた左岸に点在している。
その集落の中には、幾つかの神社、寺院、小堂宇が点在する。
その一つ、八幡社には、両部鳥居という、二本の柱の前後に添えの柱を取りつけた形の、比較的珍しい木の鳥居が残されている。
そのことは、ここではこれ以上触れないが、グループ送迎なるものがあることを初めて知った。
昔あった、親と他人の子のつながりとして考えたとき、良い点もあろうかと思われる。
然し、私がその立場だった場合、毎日のことで何かあった場合の責任問題を考えたとき、一体どうするの?と思わざるを得ない。
やはり、交通事故等の危険性も含め、個人で各々送迎か、それができない場合は、送迎バスを走らせるのが賢明であろう。
(曳馬城 引馬城 静岡県浜松市 市指定史跡)
久し振りに、昭和33年(1958)に再現された三層天守に登ってみる。
以前訪れたのは、昭和57年2月であったが、その頃は中の展示物もあまりなく、寂しい城という印象であった。今回訪れると、先回よりも物も人も賑やかになっており、変化を遂げていたが、展望台は鳥除けの金網が張り巡らされており、それが残念に感じた。
元々、永正年間(1504~20)今川氏臣飯尾乗連が築いた曳馬城の敷地に、その後徳川家康が侵攻、そして天正五年(1577)から五年の歳月をかけ浜松城を築き、天正十四年(1586)に駿河府中に城を築くまで、この地が家康の本拠地であったのである。
残る石垣も、戦国時代が故の野面積みで、不揃いな石積みが主体となっている。
家康以後は、豊臣秀吉臣堀尾氏が入り、「関ケ原」以後は出雲松江に移封、代わって美濃金山から桜井松平忠頼が五万石で入ったが、慶長十四年(1609)江戸において久米左平次によって殺められ、忠頼子忠重が幼少であったため改易となり、代わって武蔵岩槻より高力忠房が入った。
寛永十六年(1639)忠房が肥前島原移封後は、大給松平乗寿(のりなが)が美濃岩村から転封、乗寿は老中となり、正保元年(1644)上野館林に移封した。乗寿に代わって三河西尾より太田資宗が入り、延宝六年(1678)子資次のとき大坂城代となった。そして大坂城代を務めていた青山宗俊が代わって入る。
元禄十五年(1702)青山氏三代忠重のとき、丹波亀山へ移封、代わって本庄松平資俊が常陸笠間より入る。宝暦八年(1758)子資昌のとき、丹後宮津に移封、大坂城代であった井上正経が入った。
文化十四年(1817)井上氏三代正甫(まさもと)のとき、陸奥棚倉へ移封、肥前唐津より水野忠邦が入った。弘化二年(1845)子忠精(ただきよ)が出羽山形へ移封、代わって井上氏が返り咲く。そして正直のとき廃藩となった。
(地区関連記事:三方原犀ヶ崖 浜松松菱 松菱2010 姫街道鹿谷 奥山線跡 本陣梅屋跡 旧遠州銀行本店 蜆塚遺跡 鍵屋ビル)
昭和12年(1937)6月に開店したローカルデパート。現役の三重県津松菱は、別会社であるが、創立者が浜松松菱と親類である。
平成4年には120億円をかけ、上図の新館を増築し、面積51,359㎡で当時静岡県内最大規模の百貨店となった。然し、売上減少と債務超過に陥り平成13年11月14日、自己破産により閉店の道を辿った。開店当時からの旧館は、三回にわたって増築、因って東海地震等での耐震既存不適格建築物となってしまった。
平成17年度中に旧館の取り壊しを行い、マンション、テナント、ショッピングビルとして再開発をする予定となっていたが、百貨店閉店時に開店した隣接ショッピングテナントビルの動向も芳しくなく、この先余程の努力が必至といった状況である。
近年、付近三店舗の大型商業施設が閉店した。平成19年に政令指定都市移行を目指すが、中心地での商業力がそれに伴っていないと言わざるを得ない。
工業都市故の摂理といったところであろうか。
正式な名前は宇都木神社。
以前は畑の真中に茂みがあって、そこにこの石祠があった。
その後、区画整理によって移動されるかと思われたが、そこに公園を設け、その一角に残されることとなった。
今は殆どの人たちに知られない存在となってしまったが、昔は歯痛の神様として信仰を集めたようである。
祠の周りには、空木(うつぎ)の木(ユキノシタ科の樹木)が生えていて、その木で箸をつくると歯痛が治ると言われ、治ると籾糠をお礼に供えるといった習慣があったと伝えられている。
この山は山頂に神社、NHK中継所、山腹には墓地があり、山の名前も目撃される火の玉から照山と名付けられたと言われる。
砕石スピードが急激に上がり、神社と中継所を移転するにまで至った。
もうすぐ、ガラリと景色が変わってしまうだろう。