(東京都世田谷区瀬田)
長野県上水内郡出身の実業家で政治家の小坂順造の別邸跡を平成8年(1996)区有化したのを機に公園化したものである。多摩川左岸の国分寺崖線上にあり、面積は約9,500m2,園内には昭和12年(1937)に築造された、面積322m2の小坂氏時代の住宅(区有形)が残る。また、宅内には同氏が総裁を務めた電源開発が最初に手掛けた大事業である佐久間ダムをモチーフにしたランプがある。
(岐阜市河渡 2008年5月18日)
天保十三年(1842)長良川岸に石造の愛染明王を祀った小堂が建立された。その後、容姿が似る馬頭観音として信仰され、中山道河渡宿を見守ってきた。昭和59年(1984)長良川の改修工事により現在地に移転されている。
(東京都世田谷区岡本 旧所在地:岡山市中区古京町 区指定有形文化財)
岡山藩筆頭家老であった伊木家の下屋敷にあった長屋門である。昭和12年(1937)下屋敷が旭川の改修によって立ち退きすることになったため、日産コンツェルンの総帥鮎川義介の千代田区紀尾井町の自宅に移築された。その後、自宅が昭和38年(1963)現在地に移ったため再び移築された。昭和53年(1978)マンションが建設されることになり、敷地内を曳屋されて管理事務所として利用されている。
(愛知県海部郡甚目寺町上萱津 2008年5月13日)
阿波手の社と呼ばれ、草の神とされる鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を祀る萱津神社は、平安時代末期の「尾張国神名帳」には従三位萱津天神とあり、漬物の神社とも言われている。日本武尊(やまとたけるのみこと)が神社に参拝した際、村人が漬物を献上した。武尊は、その漬物に対し「藪に神物(こうのもの)」と言い、以来漬物のことを「香の物」と呼ぶようになったとされる。隣接する正法寺は、天平勝宝年間(749-56)萱津神社の社僧が創建したものという。元和元年(1615)曹洞宗に改められている。正法寺には伝説があって、陸奥国信夫郡(むつのくにしのぶぐん:現福島市)から来た藤姫が、京にいる父を訪ねて、夫と共にこの萱津の宿まで来たところ、病のために十六歳で生涯を閉じたという。後日、京の父がこの地を訪れ、反魂香(焚くと煙の中に死者が現れるとされる香)を焚いたが、逢うことができず、以来この付近を「阿波手森(あわでのもり)」と呼ぶようになったという。阿波手にはもう一説あって、日本武尊が伊吹山で負傷した際、この地で待つ尾張氏の娘で妻の宮簀媛(みやずひめ)に逢わずして伊勢に向かった。故に不遇=逢えない:阿波手となったとも伝わる。
阿波手の社と呼ばれ、草の神とされる鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を祀る萱津神社は、平安時代末期の「尾張国神名帳」には従三位萱津天神とあり、漬物の神社とも言われている。日本武尊(やまとたけるのみこと)が神社に参拝した際、村人が漬物を献上した。武尊は、その漬物に対し「藪に神物(こうのもの)」と言い、以来漬物のことを「香の物」と呼ぶようになったとされる。隣接する正法寺は、天平勝宝年間(749-56)萱津神社の社僧が創建したものという。元和元年(1615)曹洞宗に改められている。正法寺には伝説があって、陸奥国信夫郡(むつのくにしのぶぐん:現福島市)から来た藤姫が、京にいる父を訪ねて、夫と共にこの萱津の宿まで来たところ、病のために十六歳で生涯を閉じたという。後日、京の父がこの地を訪れ、反魂香(焚くと煙の中に死者が現れるとされる香)を焚いたが、逢うことができず、以来この付近を「阿波手森(あわでのもり)」と呼ぶようになったという。阿波手にはもう一説あって、日本武尊が伊吹山で負傷した際、この地で待つ尾張氏の娘で妻の宮簀媛(みやずひめ)に逢わずして伊勢に向かった。故に不遇=逢えない:阿波手となったとも伝わる。
(愛知県海部郡甚目寺町中萱津字道場 2008年5月13日)
鎌倉時代、隣接する時宗光明寺の檀徒が本山の藤沢清浄光寺に参詣した折、三島大社で大山祗命を勧請したのが始まりという。明治維新の神仏判然令まで光明寺の鎮守であった。
(東京都世田谷区玉川台)
「五郎様の森」の由来は、江戸時代末期の旧用賀村年寄役高橋五郎右衛門の屋敷林であったことによる。昭和57年(1982)世田谷区が玉川台自然観察林として3,000m2の敷地を借り受け、自然の保全と共に学校の授業の教材としても活用された。平成31年(2019)敷地の寄贈により、「世田谷区立玉川台二丁目五郎様の森緑地」として一般開放されるにあたって整備された。
(愛知県海部郡甚目寺町下萱津2008年5月13日 )
当初は真言宗であったが、元応二年(1320)日蓮宗として再興した。清洲城主織田敏定に縁があり、国指定文化財の本堂と清洲城主福島正則が寄進したという山門が残る。
(静岡県熱海市上多賀)
昭和39年(1964)に築造された、RC造5階の集合住宅である。平成元年(1989)ヤオハン・インターナショナル・ホールディングスを設立した頃から急速な事業拡大が始まり、その結果が平成9年(1997)ヤオハンの経営破綻に至った。以降、この社員寮は本来の用途に使用されることなく放置されている。
(東京都中央区浜離宮庭園 国指定特別史跡・特別名勝)
江戸時代初期は鷹狩場であったこの地は、甲府藩主松平綱重(四代将軍徳川家綱弟)が浜屋敷を構えたことに始まる。その後、綱重の子綱豊が六代将軍家宣となったことにより、甲府徳川家が絶えたため、浜屋敷は将軍家の浜御殿となったが、明治に入ると皇室の浜離宮となった。関東大震災や第二次世界大戦により被害を受け、池以外の往時の光景は失われたが、戦後は都立公園となり整備された。