(旧所在地:北海道浦河郡浦河町大通 2007年9月4日)
大正8年(1919)に築造された、木造2階建、建築面積649m2の庁舎である。昭和7年(1932)北海道庁日高支庁と改称され、昭和31年(1956)からは浦河町の所有となり、堺町会館、昭和39年(1964)から昭和53年(1978)までは浦河町立郷土博物館として利用された。昭和56年(1981)開村前の北海道開拓の村に移築された。
(JR相模線 相模原市南区新戸)
昭和6年(1931)相模鉄道座間新戸駅として開業した相武台下駅に降り立つ。開業から90年経っているが、西側は当初の光景と大きく変わっていないだろう耕作地が広がっている。かつては相模川からの砂利運搬線が敷設されていた。相武台の由来は、東方に位置した陸軍士官学校の名称として、昭和天皇が命名したことによる。
(東京都渋谷区渋谷)
昭和55年(1980)伊豆諸島新島(にいじま)の東京移管100周年を記念して寄贈されたものである。新島産の杭火石製のこの像は、新島の方言で力を合わせる意のモヤウをイースター島のモアイ像になぞらえて彫られたものである。
(名古屋市東区主税町 2007年8月30日)
陶磁器貿易商であった春田鉄次郎が居住した大正13年(1924)建造の洋館と和館がある。その西隣には、昭和3年(1928)から昭和7年(1932)にかけて建てられた12戸の春田文化集合住宅がある。共に建築家武田五一設計であり、文化集合住宅は中庭を挟んで戸建てされた、主に文化人、外国人が居住した住宅である。
陶磁器貿易商であった春田鉄次郎が居住した大正13年(1924)建造の洋館と和館がある。その西隣には、昭和3年(1928)から昭和7年(1932)にかけて建てられた12戸の春田文化集合住宅がある。共に建築家武田五一設計であり、文化集合住宅は中庭を挟んで戸建てされた、主に文化人、外国人が居住した住宅である。
(名古屋市東区橦木町 国指定文化財 2007年8月30日) かつては北隣の東二葉町にあった建物である。大正9年(1920)約8640㎡の敷地に、二階建て約500㎡の和洋折衷の建物が造られた。後に二葉御殿と呼ばれたこの建物には、日本の女優第一号といわれた川上貞奴と、大同電力社長の福澤桃介が居住した。昭和12年(1937)になり敷地が分割売却され、建物も他の所有者に移って一部が解体、増築が施された。そして平成12年(2000)には所有者から建物の寄付を受け、部材の解体保管がなされた後、市が取得した現在地の橦木町に耐震、防火処置及びRC増築を施し再現された。
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(東京都港区西麻布)
外苑西通り沿いの昭和45年(1970)に開園した笄(こうがい)公園は、かつて町名が笄町であったことに由来する。その笄町は、天慶の乱(931)の際、この地に差し掛かった源経基を平将門臣前司広雄が橋に関所を構えて通行を阻んだが、経基は将門の一味であると偽り、刀の笄を証拠として渡して通過することができたという。故にその橋を笄橋と名付け、地名になったと伝わる。
(名古屋市東区橦木町 2007年8月30日)
大正時代末期に建てられた陶磁器商の屋敷である。敷地約2000㎡には、二階建て約200㎡の洋館、隣接して約330㎡の和館と土蔵、離れの茶室がある。個人所有の土地家屋であったが、平成8年(1996)に市指定文化財となり、喫茶室等を設けながらNPO法人、市民グループによって維持管理がなされるようになった。そして平成19年春、所有者から市に寄付され、「文化のみち橦木館」となった。私が訪れたときも、NPO法人橦木倶楽部理事の方からご説明を受け、今後の活用、修復についてや、エネルギー源を太陽光蓄電にする構想等を語っていただいた。 都会にありながら、洋館二階に吹き込む風は涼しかった。
(川崎駅東口緑地 川崎市川崎区日進町)
昭和63年(1988)ショッピングセンター川崎ルフロン開業時に整備された、東海道線とルフロンの間に位置する長方形の公園である。(ルフロンはフランス語で正面の意)
(愛知県犬山市・岐阜県各務原市 2007年8月28日)
道路併用鉄橋から鉄道専用となった犬山橋を7500系パノラマカーから機器流用し、1230系パノラマスーパーとなり、踏切事故により普通車部分が改造されスカーレット色化された1380系が木曽川を渡る。